毎月出張しているフィリピン工場が、新型肺炎の影響で、
今日から4月13日まで操業を停止することになった。
フィリピン政府が、マニラ周辺のみだった都市封鎖を、
ルソン島全体に広げたための措置で、
従業員は全員、今日から自宅待機となり、しかも、
その間の給料は出ず、無給休暇になるのだという。
事務職の給料が3万円くらいなので、生活は大変そうだ。
香港支社の売り上げも今月辺りから減少すると見られ、
これから経済にも影響してくるのかな、と思ったりする。
それで、
仕事に余裕があるこの時期に有給を消化しておこうと、
今週金曜日本の祝日に合わせて休暇を取ることにした。
休校、自宅待機、移動自粛、イベント中止、など、
今回のウイルス騒動は、外向きだった意識を内側へ向け
自分の心としっかり向き合う良い機会なのかもしれない。
話は変わって、
神への否定を否定する、とコースでは言われるが、
神を肯定できるようになる前に、自己の否定を否定する、
つまり、自己を肯定できるようになることが先決だ、
と思い始めた今日この頃である。
「自分なんかどうせ…。」「なんでいつも、自分だけが。」
「他の人に比べて自分は。」「人にどう思われるだろう。」
「相手に合わせてしまう自分が嫌い。」「人が怖い。」
自分を否定することは、自己の中にある聖なる部分、
つまり、神(霊)を否定してしているのと同じなので、
そういう意味で〝私なんか〟という意識は、
神に対して、ものすごく傲慢な姿勢である、と言える。
日本には、
自己を卑下して他者を立てる、という謙遜の文化がある。
褒められれば 「私なんか、まだまだです。」と言い、
昔の親は自分の息子を〝愚息が〟と紹介したりする。
これは、相手の自尊心を傷つけないように、という、
心遣いから来ている行為でもあるが、学校や家庭で、
この謙遜の文化を散々叩き込まれて育った僕達は、
無意識のうちに、人より自分を下に置いて考えてしまう
習慣を身につけてしまった。
なので、コースを学習する上で、
自分責め傾向の強い日本人は、何はさておき、
自己肯定感を高めることが必要である、と思うのだ。
自分を責めながら神へ戻ろう(赦そう)とするのは、
神を責めながら神を求めているのと同じで、徒労だ。
もし、頭の中で自分を批判する声が聞こえたら即座に、
「それはウソだ!」「だからどうした?」「自分は霊だ!」
と、先ずは、自己へのバッシングを遮断してやる。
最初は意味もなく、機械的にやっていてもかまわない。
続けるうち、心の軸が〝いま〟へと戻ってくる。
それから徐々に、私(神)なんかだめだ、という抵抗を、
いま、ここに在る神の想いの流れへと委ねてゆく。
僕も、自分に対するバッシングを意識的に止めてから、
世界が本当に優しくなり、神を受け入れ易くなった。
友人と食事に行って、それぞれ違うメニューを頼み、
「これあげるから、それ一切れちょうだい」或いは、
「私、これ食べられないからもらって。」と言われて、
内心イヤなのに断れない、といった些細なものも含め、
〝和を保つ〟という名目のもとに行なってきた、
微妙な自分責めの数々をしっかり見て、
それをちゃんと否定してやることで、心を癒してゆく。
ここは、自分が作って見ている夢の世界なので、
(神が作った世界ではないので)、
それをやめることを選べるのも自分だけなのである。