最近ふと思ったのが、ひょっとして僕たちは、
赦しの実践、というツールを使って、無意識のうちに、
天国への帰還をわざと遅らせているのではないかと…。
〝まだまだ、自分には赦すべき幻想がたくさんある〟
〝まだまだ、こんな自分が神になど至れるわけがない〟
〝まだまだ、自分には時間が必要だ〟
〝まだまだ、自分は罪悪感を信じている〟
そう思うことで、
〝ああ、よかった!まだ帰らなくていい。〟
と、安心していられるからだ。
今すぐ、父が待つ故郷へ永遠に帰還できる、となったら、
〝いやいや、ちょっと待って、今はまだ…〟となるのに、
それが10年後だったら〝ああ、それなら安心〟となる。
天国へ帰還するために赦しを実践しているのに、
今、ここに天国がありますよ、さあ、帰りましょう、
と言われると、私なんかまだまだ、となってしまうのだ。
要するに、いま、ではなく、神に対する心の準備が整い、
〝はい、今ならいいですよ〟と自分が合図を送った時に、
帰りたい、と思っている。(笑)
この〝私なんてまだまだ〟意識が根底にあると、
どんなに赦しの実践をしても夢からの脱出は不可能だ。
なぜなら、どこまでやっても、まだまだ、だから…。
帰還を遅らせる為に赦しをしているなんて、そんなの、
悲劇を通り越して、喜劇だようー。
そこで、
神を体験するということが決定的に重要になってくる。
神を体験する、といっても、そんな大げさなことではなく、
神の不変で優しい愛の想いが、
今見えているものの中に、今聞こえているものの裏に、
絶えず流れていることを、じっと〝観る〟だけである。
それはもう、すでにここに在り、そして、これしかない。
ほら、お父さんがずっと離れず、ガン見してるじゃん!
それに何より、見えている人、モノ、全てが愛じゃん!
聞こえてくる喧騒や物音、全てが神の歌じゃん!
もう帰ってるじゃん、故郷に…。
なのに、僕たちは、自分の眼前1センチのところで、
食い気味にのぞき込んでくる神を見ようとせず、
本来ない罪悪感ばかりにフォーカスし、
赦そう、赦そう、と、日夜奮闘してはいないか?
僕は決して、赦しなど必要ないと言っているのではなく、
神を体験し、全部神だった、自分も神と同じだった、
ここが天国だった、と、気づくために赦しはあり、
そうなっている状態こそが、真に赦している状態だ、
と思うのだ。
それに、自分がどこにいるかに気づいた兄弟は、
夢の中であろうと、何であろうと、否が応でも、
豊かにならざるを得ない。すでに神を知った神の子が、
家賃が払えない夢を見ているなんて、あり得ない。
なのに、この世界で豊かになることを望んでいる自分は、
まだ自我の世界を放棄できていない、と思ったりする。
放棄すべきなのは、その思考であって、豊かさではない。
放棄すべきなのは、勘違いの方であって、神ではない。
👇 聖霊の訂正を受け容れるとは、
いま、この瞬間に在る神に抵抗しない、
ということだった、と、今なら解かる
幸せな夢は、
赦し終えたあとの〝いつか〟に訪れる訳ではない。
幸せな夢は、今、もうここに在り、そして、ずっと在る。
だから、
いま、ここに在る父を避ける為に赦しをするのではなく、
いま、ここに在る父を受け入れるために赦すのだ。