香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

愛の流れに身をまかせ

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今日、地下鉄の通路を歩いていた時、

 

若い女性がスマホを凝視したままこちらへ突進してきた。

 

いわゆる歩きスマホというやつで、かなりの没入具合だ。

 

以前の僕なら、そのままわざとぶつかってやるのだが、

 

今日の僕は、ちゃんと前を見て歩かなきゃ危ないよ、

 

と心の中で呟きつつ、彼女に道を空けてやっていた。

 

彼女に対して、とても愛情深く接する自分にびっくりした。

 

スマホに意識を没入させたまま歩いてくる彼女が、

 

無垢で、とても愛おしい存在に見えたのだ。

 

 

ああ、ちゃんと神の方向へ向いているな、と思った。

 

なんていうか、神へと向かう〝流れ〟みたいなのがあり、

 

いま、この瞬間、神への抵抗をやめることで、

 

その愛の流れに乗って神の方へ向かっている。

 

以前の僕は、

 

何で俺が神に道を空けなきゃいけないんだ、と、

 

歩きスマホをしている人にわざとぶつかることで、

 

真っ向から、やってくる神に抵抗していたので、

 

何をしても、世界に満ちている愛に気づけなかった。

 

 

もうすでに、理解していただいているとは思うが、

 

歩きスマホをしている人は神なので、

 

どんなときでも道を譲りましょう、

 

ということを言っているのではないのであしからず…。

 

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最近、他者が喜んでいたり、幸せそうにしていると、

 

なんか、自分もとても幸せな気持ちになる。

 

羨ましい、とか、妬ましい、という気持ちが皆無である。

 

また逆に、自分より人生がうまく行っている人を見て、

 

「それに比べて自分は…」と、無力感を感じることもない。

 

むしろ、次の自分を今見ている、くらいに思ってしまう。

 

 

本当に神を素直に受けいれ、自分を責めなくなると、

 

他者が喜ぶ様が、神が歓んでいるように見える。

 

自分が損をして、他者が得をしたとしも、

 

やっぱり、自分が得をしたように感じてしまうのだ。

 

 

「じゃあ、人に騙されて、全財産を奪われても、

 

そんな風に思えるのか。」

 

と、言われれば、今の僕の答えは、イエス、だ。

 

だが「神は愛であり、それが真の自分である。」

 

ということを真に理解している兄弟に、

 

もはやそんなことは起こり得ない、と断言できる。

 

 

神の愛を知るには、まず〝自分攻め〟をやめることだ。

 

自分を攻める時、実は神を攻めているからだ。

 

神を攻めながら、神の愛を知ることなどできない。

 

また、時間のある時にじっくり書こうと思っているが、

 

まず、自分を神と同じものとして受け入れられないと、

 

赦すことは、かなりしんどい苦行になると思うのだ。

 

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そんな感じで、今日から、9時半-18時半出勤となった。

 

やってみるといい感じである。

 

朝は8時45分に家を出ればいいし、退勤時だって、

 

以前から、18時半くらいまで何やかやしていた。

 

それに何より、出張がないのが、本当に、いい感じ。