今日、地下鉄の通路を歩いていた時、
若い女性がスマホを凝視したままこちらへ突進してきた。
いわゆる歩きスマホというやつで、かなりの没入具合だ。
以前の僕なら、そのままわざとぶつかってやるのだが、
今日の僕は、ちゃんと前を見て歩かなきゃ危ないよ、
と心の中で呟きつつ、彼女に道を空けてやっていた。
彼女に対して、とても愛情深く接する自分にびっくりした。
スマホに意識を没入させたまま歩いてくる彼女が、
無垢で、とても愛おしい存在に見えたのだ。
ああ、ちゃんと神の方向へ向いているな、と思った。
なんていうか、神へと向かう〝流れ〟みたいなのがあり、
いま、この瞬間、神への抵抗をやめることで、
その愛の流れに乗って神の方へ向かっている。
以前の僕は、
何で俺が神に道を空けなきゃいけないんだ、と、
歩きスマホをしている人にわざとぶつかることで、
真っ向から、やってくる神に抵抗していたので、
何をしても、世界に満ちている愛に気づけなかった。
もうすでに、理解していただいているとは思うが、
歩きスマホをしている人は神なので、
どんなときでも道を譲りましょう、
ということを言っているのではないのであしからず…。
最近、他者が喜んでいたり、幸せそうにしていると、
なんか、自分もとても幸せな気持ちになる。
羨ましい、とか、妬ましい、という気持ちが皆無である。
また逆に、自分より人生がうまく行っている人を見て、
「それに比べて自分は…」と、無力感を感じることもない。
むしろ、次の自分を今見ている、くらいに思ってしまう。
本当に神を素直に受けいれ、自分を責めなくなると、
他者が喜ぶ様が、神が歓んでいるように見える。
自分が損をして、他者が得をしたとしも、
やっぱり、自分が得をしたように感じてしまうのだ。
「じゃあ、人に騙されて、全財産を奪われても、
そんな風に思えるのか。」
と、言われれば、今の僕の答えは、イエス、だ。
だが「神は愛であり、それが真の自分である。」
ということを真に理解している兄弟に、
もはやそんなことは起こり得ない、と断言できる。
神の愛を知るには、まず〝自分攻め〟をやめることだ。
自分を攻める時、実は神を攻めているからだ。
神を攻めながら、神の愛を知ることなどできない。
また、時間のある時にじっくり書こうと思っているが、
まず、自分を神と同じものとして受け入れられないと、
赦すことは、かなりしんどい苦行になると思うのだ。
そんな感じで、今日から、9時半-18時半出勤となった。
やってみるといい感じである。
朝は8時45分に家を出ればいいし、退勤時だって、
以前から、18時半くらいまで何やかやしていた。
それに何より、出張がないのが、本当に、いい感じ。