自分を責めるという行為は、
内なる神を責めているのと同じことであると知って以降、
どんなことがあっても、絶対に自分を責めないと決めた。
そうすると、不思議なことに、人から責められなくなった。
以前やっていた僕の〝自分責め〟の例を挙げてみると、
ある同僚が、今日に限って不愛想だったりしたとき、
自動的に、自分が何か悪い事をした、と考えてしまう。
また、この数字の内容が分からないので教えてください、
と訊かれただけで、何かミスをしたかな、と思ってしまう。
そのほかにも、
自分の一言で、相手が気分を害したように見えたり、
うまく行ってたことが、急にダメになったりすると、
やってしまった、と、バシバシバッシングしてしまう。
まあ、それでも僕は、
他責型主体の外国で暮らしているからか、
一般的な日本人よりかは自分責めは少ない方だが、
それでも、基本的な気質はやはり日本人なわけで、
表向きは他責型づらして、悪いのはお前だ、とやってても
内心では、悪うござました、が先手に来ていたりする。
しかし、自分を責めると、幻想の罪を認めることになるし、
一旦実存させてしまった罪は、赦すことが不可能となる。
それに何より、本当に責めているのは自分ではなく、
聖霊であり、神である。
聖霊を責めながら、聖霊助けてください、っておかしい。
そのことに気づいてから、自分責めを止めると誓った。
具体的にどうするかというと、まずは、今に戻る。
そうして、今この瞬間に在る神に抵抗せず、
お前はなんてダメなんだ、バカバカ、と責めている思考が
シュワシュワと湧きがっては消えてゆくに任せておく。
実際には〝責めている自分〟というものは存在せず、
そういう思考が、
ただシュワシュワと立ち上がっているだけである。
あとは、その時々の自分にとって最大の心地よいこと、
カフェでワインを飲んだり、マッサージへ行ったり、
家でなにか面白い動画を見たり、お風呂に入ったりする。
神への呼び水となるような法悦タイムを満喫することで、
自分、もとい、聖霊へのバッシングに歯止めをかける。
そうやって、自分バッシングを止めると、
しばらくは、幻想のスクリーンに、
昔自分責めしていた頃の投影が映し出されるが、
それをやり過ごして、ロケットが大気圏を抜ければ、
一体どうしたんだ、アセンションでもしたのか、
というくらい、突然、周囲の兄弟が優しくなる。
これはもう、気持ち悪いくらい、一瞬で変わる。
あまりにヘンなので、
オレ、元コンババ部長に訊いたもん。
なんか、僕に優しくなってません?
って…。
返事は 「いや、別に。」 だった。
そんな感じで、今日は昼から会計事務所へ行ってきた。
いま、会社は税金申告の時期に来ていて、
少しでも節税するために、なんやかや、するのである。
会計士と話し合い、資産を可能な限り損金へ詰め込み、
不用な利益を削ってゆく。
言っておくが、
これは決して脱税ではなく、あくまでも、節税である。
5時半に打ち合わせが済み、時間もアレだったので、
直帰を決め、会計事務所から自宅まで、歩いて帰った。
気温は15℃。風もひんやりと心地よい。
今夜は、ちょっと奮発して、超高級和牛肉を買おう。
そして、ステーキに舌鼓を打ちながらワインを飲み、
クラウド録画のミヤネ屋を見るのだ。
あああ、法悦。