今日は家でお籠りの一日だった。
昨日のウェブトレで習った腹筋や背筋トレをやった後、
古い広東語のノートを持ち出して語学の勉強をした。
最近、家では日本のテレビばかり見ているし、
会社でもEDWARDとしか広東語を話さないので、
広東語の微妙な表現ができなくなってきている。
その後、小説のプロットを考えながら午後を過ごした。
僕の場合、物語のプロットとトーンを緻密に立てたら、
あとは一気に、がーっ、と書き上げるタイプなのだが、
それでも、登場人物のキャラが立ち始めると、
彼らが勝手に動き出し、大概プロット通りにはいかない。
先日、小指を私だと思っている、という話をしたと思うが、
そこから派生して、へんてこな〝たとえ〟を思いついた。
例えば、足の小指をタンスに思いっ切りぶつけたとする。
見れば、爪は剥がれ、皮膚は紫に腫れあがり、と、
あまりの痛さに、テレビを見ていても、食事をしていても、
意識は足の小指の痛さだけに一点集中してしまい、
他のことには、ほとんど意識が及ばなくなる。
まるで、小指が私の全てになってしまったかのようだ。
そんな中、タンスに足をぶつけたことを後悔したりする。
別のルートを通っていればこうはならなかった、とか、
これは何かの因果でバチが当たったのだ、とか、
また、こんな所にタンスがあるからいけないんだ、と、
怒りに任せ、タンスに向かってモノを投げつけたりする。
で、なにか心配事や厄介事を抱えているときというのも、
多分、これと同じ状態なのではないか、と思ったのだ。
心配事や悩みが〝わたし〟そのものになっている。
これは幻想だ、と赦そうとしても、先にその痛さを
実在させてしまっているので、赦すことなんかできない。
こんな時、僕の場合、赦す前にいくつかやることがある。
先ずは、赦そうなんて考えず、思い切り、痛がる。
苦しさの中に100%入ってじっくり向き合うのだ。
或いは、いま、この瞬間にいて、ただ抵抗せずにいる。
または、酒を飲むとか、映画を観るとか、按摩に行く、
など、なにかちょっとした心地よいことをする。
痛み(葛藤/動揺)を、赦すことで癒そうとするのではなく
先ず赦せる状態にまで意識を中立に戻すことが重要だ。
今まさにビュンビュン吹きまくっている苦しみの最中に、
これは幻想だ、とすんなり明け渡せる人は稀だと思う。
なので、タンスに足を打ち付けてのたうち回っている時、
なにはともあれ落ち着こう、である。
抵抗せずにただ在るのみ…。
大丈夫、変化し続ける自然の法則通り、
ずっと苦しいまま、なんてあり得ないから。