👆 会社近くの昼下がり
今日は午後から〝恐怖〟の部門長会議があった。
日本サイドでは在宅勤務の社員もたくさんいるため、
それぞれがZOOMを使って会議に参加した。
スカイプよりサクサク通話できて、資料共有もスムーズ。
これなら、テレワークでも全然支障がない。
こういう大勢が参加する会議の席にあっても、
以前のように、人前で他者から攻撃されるのではないか
という恐怖から、ガチガチに緊張することはなくなったが、
それでも、自分の発表の順番が近づいてくると、
〝ちょっとドキドキ〟くらいはする。
こんなとき、今、この瞬間に在る神を思い出せば、
「ああ、自分は今、神にドキドキしている」と解かる。
👆 街の薬局屋さん
今、この瞬間に在る神の中にいることを自覚する前は、
恐怖や動揺や怒りを感じるたび、それらは幻想であり、
起こっていないのだから、聖霊兄貴に全て明け渡して
神の愛を思い出させてもらおう、という感じでやっていた。
なんていうか、
恐怖や動揺や怒りといった、自分にとって嫌な感情と、
神の愛の想念とは全くの別物だとして扱っていた。
しかし、今、この瞬間に在る神の中にいると、
神の子の自分が感じられるものは〝神〟しかなく、
逆に言えば、神以外のものを感じることができない。
なので、たとえそれが恐怖や動揺や怒りであっても、
本当は〝神〟の想いを感じているのであり、
〝それは神でしかなかった〟ことが理解できてくる。
しかし、こういう風に書くと、また僕たちは、
怒りや恐怖も神の愛だと感じられるようにしてください、
と、やってしまったりする。
だが、自分の本性は神の子である。
その神の子が、怖がったり、緊張したりすることに、
いったい何の問題があるというのか。
よく見てみると、僕たちは、恐怖している対象にではなく、
〝恐怖していること〟自体を恐れている。
その〝怖いという感じ〟のみを恐れている。
そして、
その怖い感じの正体こそが〝神の気配〟である。
要するに、僕たちは神を恐れているのである。
本当は神を恐れているのに、
別の何かを恐れているように思っている。
つまり、神を恐れながら、神の愛を感じさせてください、
とやっているわけなのだ。
なのでもう、
神認知症である自分にできることなど何もないのだから
恐怖や怒りが出てきたら、
「ぎゃあぁーっ!神、こわいーっ。」
「ひぃーっ!父に殺されるぅーっ。」
とまあ、とりあえず、ことあるごとに、それは神だ、
と自覚しながら怖がっていればいいのではないか。(笑)
そうすることで、次第にアホらしくなってきて、
神の子が神の想念を恐れることはない、と解かってくる。
その視点に立てば、神の子の自分がやることの中で、
ダメなものは何ひとつなく、攻めるようなものもない。
というわけで、ああ、今日もよく働いた。
明日一日頑張れば5連休、おうちにいよう週間…。