香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分に訊く、兄貴に訊く

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おとといのコーヒーカップ事件以来、エドワードも、

 

もう一人の日本人も、コーヒーを入れてくれたり、

 

僕の代わりに郵便局へ行ってくれたり、と、なんか、

 

腫れ物に触るように、僕に気を使ってくれる。(笑)

 

でもまあ、僕たちはすでに身内みたいなものなので、

 

しばらくするとまた元へ戻るだろう。

 

 

しかし、僕はもう、引き続き彼らが、

 

古いカップでコーヒーを飲んでいたとしても、

 

何とも思わないだろう。

 

(古いカップは即座に処分されてしまったけれど…)

 

なぜなら、自分の中の本音に耳を傾け、

 

緊張しながらも、相手に気持ちを伝えられたことで、

 

隠されていた〝神への逆恨み〟が昇華され、

 

結果、心が納得し、ある種の赦しが起きたからだ。

 

そのために、僕の想いを受け止めてくれた兄弟がいる。

 

そういう意味で、兄弟には感謝と恩義しかない。

 

なので今後、もし逆に、兄弟から想いをぶつけられたら、

 

僕には彼らの想いを受け止める恩義があると思うのだ。

 

 

これはあくまで僕個人の持論なのだが、もし自分の中に

 

ある親しい人に対するモヤモヤやイラッ、が出ていたら、

 

「聖霊、この思いをなんちゃらかんちゃら…」とやるより、

 

直接本人に伝えた方がよっぽど赦せるような気がする。

 

ましてや相手が夫や妻など、特別な人だとなおさらだ。

 

「なんだ、そんなふうに思ってたのか。」

 

チャンチャン、となる時もあれば、

 

「それじゃあ、私も言わしてもらうけどね。」

 

と、ガッチーン、となるかもしれない。  

 

これって、すっごく緊張して怖いけれど、一回やると、

 

心が納得して、一種の赦せている状態になるので、

 

次に相手が何を言ってもやっても、何とも思わなくなる。

 

家族やパートナー等、生活を共にする親しい人と、

 

常に怒りや緊張を感じながらモヤモヤ暮らすなんて、

 

すごく辛いことだと思うし、悲しいことだと思う。

 

だが、そのムカつくぅーっ、という想いは、実際には、

 

パートナーにではなく、神に対して思っているので、

 

パートナーと向き合うことで、神への思いに気づける。

 

だって、自分が〝この人だ〟と思って選んだ人じゃん、

 

ガッチーンやるだけの恩義はあると思うけどなあ。

 

(※って、一体誰に向かって言ってるんだ? 笑)

 

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 👆 怖そうに見えてどこかカワイイ神様たち

  

そういうわけで、

 

自分に訊くことと聖霊に訊くことは同じである、

 

という事実を体感している今日この頃である。

 

 

以前の僕にとって、聖霊は、自分とは別の、

 

どこか外に在る存在、というふうに感覚化されていた。

 

「この間違った思いを修正してください」 とか、

 

「どうすればいいか教えて下さい」と祈る際も、

 

自分とは別の誰かに呼びかける様な感じでやっていた。

 

もちろん、聖霊は自分の心の中の正しい部分であり、

 

本当の自分を代表していると頭では理解していても、

 

〝訊く〟という行為に対し、どうしても僕たちは、

 

他の誰かに訊くことを自動的にイメージしてしまう。

 

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それでも、ここ最近、、

 

聖霊はもともと自分の心の中にいるのだから、

 

ただ、自分に訊くように聖霊に訊けばいいんだ、

 

ということが理解できて以来、

 

聖霊は自分の中にいて、自分と同じものだ、

 

という体感が起きている。

 

なので、今の僕は、自分を通して聖霊に訊く、というか、

 

自分に訊いているうちに聖霊に繋がる、感じである。

 

 

例えば、今回のコーヒーカップ事件で言えば、

 

「兄貴、この間違った感じ方を愛へと修正して下さい」

 

と、いきなり怒りから神の愛へ振り切ろうとしても無理で、

 

まずは、なんでコーヒーカップごときで怒っているのか、

 

を自分にちゃんと聞いてやって、寄り添ってやる。

 

そのステップを踏むことで、

 

本当は愛を求めてたんだ、本当は神を求めてたんだ、

 

と、本音の核心の部分を認識することができ、

 

そこで初めて〝聖霊兄貴、きたあーっ〟となる。

 

 

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自分なんてない、怒りもない、世界は無い、と

 

コース兄弟たちは〝無〟にフォーカスしがちだが、

 

それも含めて全部神だった、神しかなかった、と、

 

神を肯定することで、愛も天国もここに在ったことを

 

自分の分身である聖霊に教えてもらえる。