数年前の僕は、
起きてくる事象に対して、何らかの思い、例えば、
恐怖や、憎悪や、緊張、といった思いが湧いたら、
ソッコーで、起こってない、世界は無い、罪悪もない、
と、自分に言い聞かせ感満載な赦しをしていた。
まあ、そういう時期も、今になって思えば、
必要だったのかもしれないが、
今は、あんまりやらない。
なぜなら、
ある出来事を見て、様々な思いが錯綜するのは、
心の中にそれなりの〝赦せない思い〟があるからで、
その〝赦せない思い〟を無視してバンッと否定したり、
逆に、神しかない、といきなり究極へ舵を切っても、
赦しは起きないことを身に染みて感じているからだ。
神だけが在る、神が全て、というのは真実だが、
例えば、本人は不安や緊張の真っ最中にあるのに、
それでも根性で、神だけがあるーっ、とやって、
不安や緊張が、さっ、と神だけに変わるのであれば、
今頃、全員父が待つ故郷へ帰還済みのはずである。
また、すでにその段階にいる人なら、もう最初から、
神の想いを不安や緊張に歪めて感じる、
なんていう回りくどいことはしないと思うのだ。
なので、僕の場合、
まずはその〝赦せない思い〟をちゃんと観てやる。
誰かから攻撃をされたように感じて怖いのであれば、
過去(または前世)のどんな自分が、
他者となって自分に会いに来ているのか、を観る。
そしてまた、これが不思議なのだが、そうやって、
今、この瞬間に在りながら、本音で自分に語りかけるうち
色々な答えや気づきが、ぽっ、ぽっ、と上がってくる。
やがて、その答えや気づきは、聖霊兄貴から来ている
と感じられてくる。
すると今度は、聖霊へ直接語り掛けるようになり、
「ああ、聖霊に教えてもらうとはこういうことだったのか」
と、直接的な理解が起こるようになるのだ。
それで、最後には、
ああ、自分は愛を求めていたんだ、愛されたかったんだ、
と、この恐怖も、神の愛だったことが理解できたとき、
聖霊による、ある種の癒し(赦し)が起こる。
僕の場合、そうなった瞬間に初めて、
起こってない、世界は無い、罪悪もない、が受け入れられ
神だけが在る、という言葉が真実として入ってくる。
今日は、昼一番から〝元〟恐怖の部門長会議だった。
今ではもう、恐怖は感じないが、緊張はする。
しかし、
この緊張感は〝神の想い〟として感じられているので、
それはもう神であり、緊張感ではなくなっている。
妻も、夫も、子供も、上司も、友人も、神だった、
となった時点で、
彼らは神という〝ひとつ〟に集約され、
すでに神という一つの解釈となっている。
世界は無い、自我は無い、とは単なる否定ではなく、
解釈の入れ替え、の結果なのだと思う。
これまで、どんな時も、
僕たちは神しか感じてこなかったのだ。