何かを考えたり、行動したりしている〝私〟が、
どこを探してもいないことに気づいて以降、
赦しも、個人的なものから、全体的なものへと
移行しつつある。
自分の中に確固とした個人を見つけられず、ただ、
様々な思いがシュワシュワと湧きたっているだけだ
ということが分かったと同時に、他者も同じように、
想いだけが湧いている実体のない存在なんだ、
という理解が起こった。
わたし対あなたではなく、全体でやっている。
〝ひとつ〟があるだけで、わたしもあなたも、無い。
全体からシュワシュワ出てくる想いが、
わたしの想い、あなたの想い、となって、
互いにいろいろな事を起こし合っている。
そのことが腑に落ちてから、
些細な〝シュワシュワ〟に注意するようになった。
電車が来て、車両の扉が開いているのに、
スマホを覗き込んだままモタモタしている前の学生、
バスの中で、隣の空いている座席に、
自分の荷物を置き、スマホを見ているオッサン、
エレベーターのボタンの前に立っているのに、
スマホを見たまま〝閉〟のボタンを押さない女、
そういう解釈が生み出す幻影を見て、
シュワッ、と上がってくる想いを認識し、赦してゆく。
👆 シュワシュワと消えてゆく姿
これって、あまりにベタな感情過ぎて、10秒後には、
忘れてしまうような、シュワッ、なのだが、
この瞬発的に発せられた相手を責める思いは、
全く別の場面で、今度は自分を責める思いとなって、
他者から発せられることに気づいたのだ。
なぜなら、個人対個人でやっているのではなく、
(そんな個人はどこにもなく)、
全体の〝ひとつ〟から出たシュワシュワが、
シュワシュワ同士でやっていることだからだ。
また逆もしかりで、
自分が発する相手への些細な攻撃の想いが、
全体を通じて、自分に責め返ってくる。
それが分かるともう、赦すしかなくなる。
もともと、想いが湧いているだけで、
赦すべき誰かなどどこを探してもいないので、
〝私〟や〝相手〟を赦そうとしても無駄である。
赦すべきは〝シュワシュワ〟と湧いて出ている
〝想い〟のみである。
そう、自分、とか、あの人、と思っていたのは、
ただの〝シュワシュワ〟でしかなかった。(爆笑!)
よく、非二元の人たちが、それしかない、と言って、
ひとり大爆笑しているが、ホントに笑うしかない。
というわけで、昨日、書店に立ち寄った際、
去年から始まった、一連の抗議活動を記録した
写真集があったので、記念に一冊購入した。
香港が完全に〝こんぴらさん〟に支配されれば、
(※あのトップの人の名前を漢字で書くと、
検閲に引っかかるので、今後はこう表現する)
もうこんな写真集も発売されないだろうから…。