今日も一日、お籠りのうちに過ぎて行った。
おまけに明日もお籠り、幸せすぎる!
明日はおでん作りに挑戦、と言っても、
パックになったやつを温めるだけだけど…。
その他にも、ロールキャベツにハンバーグ、と、
ネタはたくさんある。全部冷凍食品だけど…。
自我って、自分を自分だと思っていることなんだ、
という事実を、改めて実感している。
自分という確固とした存在がここにいて、
その自分が何かを考えていると思っているので、
相手も同じように、あそこに存在していて、
何かを考えているだろう、というふうに捉えている。
そこから分離感を感じて不安になったりしている。
しかし、本当はただ思いが湧いているだけで、
何かを考えている誰かなんて存在しないし、
存在しないものが分離することなどあり得ない。
この気づきが〝ふっ〟と湧いた瞬間、
関係をうまくいかせようとか、人からどう思われるか
といった、個人としての抵抗からくる罪悪感が、
消滅してゆくのを感じた。
あいつムカつく、死ねばいいのに、と思うなら、
そういう想いが湧いてきただけであり、
また、この感情を赦して、兄貴に取り消してもらおう
というなら、そういう想いが湧いているだけで、
どこまで行っても、とことん湧いているだけである。
本当は、シュワシュワと神が湧き上がってきている。
いま、ここにある神に抵抗しようとするエネルギー、
湧き上がるものに罪悪感を感じようとする動きを、
そのまま見過してゆけば、自動的に赦しは起こる。
そうやって、湧き出る思いへの抵抗が無くなり、
消えていく姿を消えるままに見過せるようになると、
次第に意識が静まり、心が穏やかになる。
すると、その向こうに、神の気配が見えてくる。
椅子や田中さんが存在していると思っていたが、
それらの奥に、共通の何かが在るような気配…。
椅子や田中さんが存在しているように見せている
言葉では説明できない〝何か〟の感触…。
その存在の気配に気づく(観る/智る)ことによって、
それが聖霊の気配であり、神が在る気配であり、
本当の自分の気配だった、という知覚できる。
本当の自己は、そこにあったのだ。