なんか、無限の全体が反映された,
現実のスクリーンを見ていると、
その優しさに圧倒され、涙が出そうになる。
どんなに横柄で自分勝手に見える人でも、
その人の中には〝優しい心〟の部分があり、
その優しい本質の部分に神の想いを感じて、
泣きたくなるほど感動するのだ。
なので、相手の内面に隠れている、
優しい心の部分にフォーカスすることは、
ハートの歓びにフォーカスするのと同じだ。
具体的に相手がどんな振る舞いをした、とか、
どんなことを言った、ということではなく、
その人の背後に常に流れている、
〝何だか優しい感じ〟に感応するのである。
小さな優しさの塊りみたいなものを見つけて
それを、前側ではなく背後で感じてゆくことで
相手の中に神を観ることができる。
今日は、強制有休消化日で、お休みだった。
午前中は掃除や洗濯をし、午後からは、
ジムで自主トレ👉カフェで読書👉マッサージ
と、今、ここに在る神の平安に抵抗せず、
とても心地のよい一日を過ごした。
後ろ側(見えない世界側)が真実となり、
前側同士でやり取りをしなくなってきたせいか
自分と現実のスクリーンとの間に隙間ができ、
自分と世界が乖離を始めている。
以前は、
自分の意識も、現実のスクリーン中へと
どっぷり落ち込んでしまっていたが、
今の僕の中で、自分という存在は、
現実のスクリーンの中で起きている
ストーリーとは全く別物だ、
という感覚が強く、
まるで映画を観るような感じで、
現実を捉えられている。
人々の間を縫うように走るチンチン電車、
果物屋に並ぶ色とりどりのフルーツ、
宅配自転車に乗って颯爽と通りを走り抜ける
ターバンを巻いたインド人のお兄さん、
高層ビルの間を流れる雲、
道端で何やら揉めているラテン系のカップル、
全てが無限の全体の中で輝いており、
神の優しさを放っている。
コーヒーを飲めば感動し、家の戸棚の中にある
缶詰の配置に畏敬の念が込み上げてくる。
美空ひばりではないが、
川の流れに身をまかせ、ならぬ、
神の流れに身をまかせ、である。
そして、この神の優しいまなざしこそが、
真実の自分そのものだった。