👆 〝一本スジの通った男〟になった!
(一本じゃなくて、2本入ってるやん!
分け目も入れたら3本やん!)
これはあくまで僕の個人的見解だが、
コース兄弟の人はどちらかというと、
〝自分〟という言葉に抵抗を抱く人が
多いような気がする。
肉体の私なんて無い、個の自分なんて無い、
神だけが真実で分離した個は幻想だ、
が基本ベースにあるため、個の私が、
判断したり、解釈をしたり、感じたりするのは
自我であり、故にそれは無だ、とする。
なので、赦しの実践においては、
自分で解釈せず聖霊に訊く、
自我の囁きや思いを聖霊に明け渡す、
起こっている事や、湧き上がる感情を、
ただ見過ごしてゆく、というふうに、
自分でやらない、明け渡す、ただ見過ごす、
ということをとても大切にしている。
究極の真理から見れば正しいと思う。
これに対して一切の妥協をしない、
という点において、僕も同じスタンスだ。
しかし、
赦す、聖霊に委ねる、他者の中に無辜性を観る
肉体は無い、世界は無い、神は在る、を、
真に体感として〝理解〟できるためには、
まずは、自分の内部が神の愛で満たされ、
自分が愛そのものだったことに気づくことが
先決だと思っている。
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少し前までの、僕の赦しの実践としては、
これは起こってない、私はない、
と、聖霊に明け渡し、見過ごす前に、必ず、
起こっている事や、湧き上がってきた感情を、
一旦、きちんと見て感じるようにしていた。
個の自分が幻想であれ何であれ、実際に、
肉体を持ってこの夢の世界を生きているのには
何らかの理由があるはずであり、
その〝言い分〟を理解してやらない限り、
分離を決めた張本人である意識の〝自分〟が
〝戻ろう〟とするはずがない、と思ったからだ。
だって、
実践されている方ならお分かりだと思うが、
様々な不安感や、恐怖や、動揺が湧いた時、
形而上学通りにやっても、そうおいそれとは
見過ごせないし、明け渡せない。
これはもう訓練していくしかない、
と思いつつも、愛が見えてこないのだ。
そこで、これってなんかおかしい、と思った。
自分がやっている実践には、自分に対する、
愛や、優しさや、感謝が無いことに気づいたのだ。
要するに、赦そうとして自分を責めている。
なので僕は、個の自分は無い、という、
無い方を注視するのではなく、それよりも、
在る方(神)へ意識を集中することにした。
自分の背後に広がる愛の流れに気づけば、
個の自分など無い、と自然に理解できるからだ。
無限の神側の視点に立てば、肉体も、
愛の反映の映像に過ぎないと分かるので、
私など無い、とバシバシしなくても、
先ずは、無限の全体の一部である自分に、
優しくすることに集中していればいい、
という意識になった。
そこから、劇的に僕の内部が変わり、
神が常にあることを感じられるようになった。
👇今日は、宇宙列車の乗り換えの話だよ!