最近、思う。
全ての〝望み〟って結局、
神を望んでいるのではないか、と…。
また、
あそこのカフェで、白ワイン&読書したい、
刈り上げにラインを二本入れたい、
こんな恋人と出会ってこんな生活をしたい、
といった望みと、
永遠に父が待つ故郷へ帰りたい、
という〝望み〟は同じものなのではないか、
とも思う。
というのも、
こんな恋人がいればいいな、と想像して、
ウキウキしている時の歓びの感じや、
雰囲気のいいカフェでワインを飲んでいる時
に感じる何とも言えない安らいだ感覚は、
神を感じて歓んでいる時の感覚と同じだ、
と、気づいたのだ。
その望みが叶うかどうかはさて置き、
こうなったらいいな、あそこへ行ってみたいな、
こんな家で暮らせたら楽しいだろうなあ、
という望みが出て来た際に感じる、
うれしさがほとばしるような感覚は、
やはり神の愛に属するものだ。
よく、外の現実をよくしようとするのは自我だ、
と、いろいろなスピで言われたりするが、
純粋に何かを望んだ時に感じる歓びの気持ち
だけにフォーカスするならば、
それは決して自我ではない、と断言できる。
逆に、
その望みを叶えようと、頭で方策を巡らせたり、
こんなこともあるし、あんなこともあるから、
自分にはやっぱり無理だ、といった
〝望んだ後に出てくる否定〟こそが
自我なのではないかと思う。
なぜなら、望みを持った自分に
罪悪感を感じて否定することは、
神の力を否定するのと同じだからだ。
なので、いろんなことを欲していいのだと思う。
行動に移したければ、そうすればいいし、
心の中だけでニヤニヤしていたければ、
それだけでも充分、神の想いを感じている。
そして、その歓びの想いはやがて、
背後に広がるひとつの全体を通って、
スクリーンの裏側から滲みだしてくる。