香港さんといっしょ! 純粋非二元を生きる

欲望都市香港で奇跡を実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神を望む

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最近、思う。

 

全ての〝望み〟って結局、

 

神を望んでいるのではないか、と…。

 

 

また、

 

あそこのカフェで、白ワイン&読書したい、

 

刈り上げにラインを二本入れたい、

 

こんな恋人と出会ってこんな生活をしたい、

 

といった望みと、

 

永遠に父が待つ故郷へ帰りたい、

 

という〝望み〟は同じものなのではないか、

 

とも思う。

 

 

というのも、

 

こんな恋人がいればいいな、と想像して、

 

ウキウキしている時の歓びの感じや、

 

雰囲気のいいカフェでワインを飲んでいる時

 

に感じる何とも言えない安らいだ感覚は、

 

神を感じて歓んでいる時の感覚と同じだ、

 

と、気づいたのだ。

 

 

その望みが叶うかどうかはさて置き、

 

こうなったらいいな、あそこへ行ってみたいな、

 

こんな家で暮らせたら楽しいだろうなあ、

 

という望みが出て来た際に感じる、

 

うれしさがほとばしるような感覚は、

 

やはり神の愛に属するものだ。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

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よく、外の現実をよくしようとするのは自我だ、

 

と、いろいろなスピで言われたりするが、

 

純粋に何かを望んだ時に感じる歓びの気持ち

 

だけにフォーカスするならば、

 

それは決して自我ではない、と断言できる。

 

 

逆に、

 

その望みを叶えようと、頭で方策を巡らせたり、

 

こんなこともあるし、あんなこともあるから、

 

自分にはやっぱり無理だ、といった

 

〝望んだ後に出てくる否定〟こそが

 

自我なのではないかと思う。

 

なぜなら、望みを持った自分に

 

罪悪感を感じて否定することは、

 

神の力を否定するのと同じだからだ。

 

 

なので、いろんなことを欲していいのだと思う。

 

行動に移したければ、そうすればいいし、

 

心の中だけでニヤニヤしていたければ、

 

それだけでも充分、神の想いを感じている。

 

そして、その歓びの想いはやがて、

 

背後に広がるひとつの全体を通って、

 

スクリーンの裏側から滲みだしてくる。

 

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