👆 日曜日、友人と火鍋をする。 👆
4000円で90分食べ放題の飲み放題
毎日、出張もなく、穏やかなオフィス生活を送っている。
外出がないと、腰を落ち着けて仕事ができるので、
その分ミスがなくなり、結果、心にも余裕が生まれる。
今日は仕事帰りに、タイムズスクエアでも覗いてみよう、
という気になったりもする。
こうやって、いい気分な瞬間を過ごすことで、
神の想いに同調し、神の流れに身を任せやすくなる。
その〝神の流れ〟に慣れてくると、今度は、
故意に何かをしなくても、自動的に、
いい気分な現実に身を置くようになる。
決して現実をよくすることが目的ではないけれど、
まあ、何といっても、
自分は神と同じものとして、神の中にいるのだから、
これでまだ罪悪感や無価値観に喘いでいたら嘘だよう。
要するに、自分が自分を邪魔しているだけなのだ。
どういうことかというと、
美味いワインを飲みながら、ソファで映画を見ている時、
全身をマッサージされつつ、至福の時を過ごしている時、
大好きな人や気の合う友人とおしゃべりしている時、
または、旅行をしている時や、休みの日の前日、など、
そんな時、僕たちはとても〝いい気分〟になっており、
神の流れに同調し、身をゆだねている。
また逆に、
朝、シャワーを浴びながら、今日、これもやらなきゃ、
あれもやらなきゃ、と仕事の事をあれこれ考えている時、
昨日、メールであの人からあんなこと言われた、と、
通勤電車のなかで、もやもやしている時、など、
そんな時、僕たちは〝いやな気分〟になっており、
神の流れに抵抗している。
👆 日曜夜7時の店内。ガラガラ 👆
そんな神の流れに抵抗している際に神へと戻るコツは、
無理くり神を思い出そうとしないことである。
いきなり、世界はない、夢だ、とやっても無理なのだ。
まずは、気づいた時点で、とりあえず、
どっこらしょっ、と意識を、いま、この瞬間へと戻す。
そこから、いま浴びているシャワーの感触を感じたり、
電車の窓から見える風景や車内の乗客に目を向ける。
なぜなら、シャワーを浴びながら、
今日あれやらなきゃ、と思っている瞬間というのは、
絶対に周囲が平安なはずだからである。
だって、もし、浴びているシャワーのお湯が、
熱くなったり、冷たくなったりしていたら、
シャワーのお湯がヘンだ、という、
今、この瞬間の問題に気を取られて、
今日、これやらなきゃ、あれはどうなったかな、
などと、悠長に考えてなどいられないはずだからだ。
そういう意味で、僕たちは、
少しでも平和な時間を作らないために、言い換えれば、
神につながる穏やかな沈黙を避けるために、
平安が来ると、いやな気分になるようなことを思い出して
神に繋がろうとするのを邪魔している。
なので、そういう、モヤモヤ思考が湧き上がって来た時、
自分で自分の平安を邪魔しているのだな、と気づき、
即座に、いま、この瞬間へ戻って、
そこに在る神の流れにぼーっと身を任せるといい。
いま、この瞬間だけが、
自分が救われる唯一の時間であり、そこに神がいる。