今日は日本が勤労感謝の日で祝日だが、
香港は通常の平日である。
しかし、今日は有休消化で僕も休みなのだった。
この三連休は、
筋トレへ行ったり、行きつけのバーへ行ったり、
カフェでワイン&読書と、近場で過ごした。
なんせ僕は香港の六本木に住んでいるので、
(おーほほほっ!)遠出する必要がないのだ。
それ以外は、ほとんど寝てた。
もう本当に眠くて、夜11時くらいに寝るのだが、
あくる日、正午くらいに目覚めてもまだ眠く、
午後二時頃にようやく起き出す始末である。
まあ、
前側(自我側/投影側)だけで生きていた時なら、
せっかくの休日を無駄にした、となるのだろうが
背後側(神側/反映側)で生きるようになると、
寝ている時の方が豊かさ(神)の中にいられる。
仕事がない日などはまさに〝入りっぱなし〟で、
自分の中に全部ある感がハンパなく、
実存の〝反映〟を見て神の愛を感じている方が
自我の〝投影〟ばかりを見て、それは無い無い、
と叫んでいた頃よりすっごく豊かさを感じる。
というのも、あるとき、罪悪感や自我を、
無い無いと言って無いものを直視していても、
それは無いんだから意味ないじゃん、と気づいた。
「だって、無いんでしょ!」と思ったのだ。
というわけで、話は全然変わって、
人にはそれぞれ、多かれ少なかれ、クセがある。
髪の毛を掻き上げるクセや、歩き方のクセ、
といった行動的なものから、酔うとしつこくなる、
といった性格的なものまで、さまざまだ。
で、僕には昔から、爪を噛むクセがあったのだ。
これはもう幼少期からのもので、
緊張した時や、考え事をしている時などに、
無意識に爪を噛み、指の甘皮まで剥いてしまう。
なので、いつも爪は短くギザギザしていて、
指の皮膚もささくれ立っていた。
まあ、大の男が爪を噛むしぐさは、
はた目にもあまり気持ちのよいものではなく、
自分でも気にして直そうとするのだが、
焦ったりすると、やっぱり無意識にやってしまう。
原因は大体わかっている。
というのも、僕の母親のおっぱいが、
先天性の〝陥没乳頭〟であったため、
赤ちゃんの時に乳頭に口をつけてお乳を吸う
事ができなかったからだと思われる。
その補償行為として、5歳くらいまで、
ガーゼやタオルを咥えないと眠れなかった。
まあ、はっきりとした根拠はないのだが、
今になってみればこれも運命だったのだと思う。
それである時、もういいやと思い、
好きなだけ爪を噛ませてやることにした。
抵抗を止め、自分のクセを自分に許可したのだ。
見た目はよくないかもしれないけれど、
別に誰に迷惑をかけるわけでもなし、
何十年も噛んできたけど病気にもならなかった。
☟この時代はまだ投影と反映を混同していた
で、暫くして、何かの拍子に自分の手を見たら、
あちこち皮がむけ、悲惨な状態になっていた。
その瞬間、自分に対して、
とてもひどいことをしていたことに気づいた。
僕がどんなに爪を噛んでも、
僕を生かそうとする何か大きな力が、
指の甘皮を再生させ、爪を修復させようと、
懸命に働いてくれているように感じたのだ。
その見えない愛に気づいたとき、
もう絶対に自分を傷つけない、と誓った。
それからも、
爪を噛みそうになる自分に気づいては止め、
指の皮をむきそうになる自分を見とめては、
自分は自分を傷つけない、と言い聞かせた。
それで、なんと、いま、生まれて初めて、
自分の爪がギターが弾けるほど伸びている。
そういう意味で、クセというものは、
自分が裏に持っているものを投影していて、
なんか面白いな、と思った。