昨日は、
マッサージと、足の裏の角質取りに行って来た。
本当はマッサージ店も終日営業禁止なのだが、
僕が通っているマッサージ店は、
口の堅いひいき客のみを相手に、
こっそり裏で営業を続けている。
オーナーに話を聞けば、
もし同業者にチクられでもすれば、
営業許可取り消しで一巻の終わりだが、
それでも営業しないとやっていけないのだという。
足の角質取りをしてもらうのは3か月ぶりだ。
ものすごい量の角質が削り取られて出てきた。
自分のものではない過去のカスがそぎ落とされ、
身も心もスッキリした。
続いてマッサージを受ける。
今、この瞬間に集中し、全身脱力状態となって、
まるで自分の肉体を味わうみたいに、
指で刺激される部位一つ一つの感覚を味わう。
こんなとき、マッサージ師の指によって、
細胞の隙間から押し出されて来た思いのカスが
現われては消えてゆく様も同時に見送る。
宇宙のカス、想いのカス、浮上し消えてゆくカス、
肉体って本当に自分の意識の顕れそのものだ。
なので、僕にとってのマッサージは、
意識の大掃除、想いの断舎離、となっている。
というわけで、
最近、爆弾発言が続いている僕だが、
もうついでなので、
もう一発、投下することにする。
〝罪悪感も本当は神の愛だった!〟
僕が毎回罪悪感を感じるたび、
その不快感の奥に、どこかキュンとなるような、
ハートのエクスタシーと同じ〝愛の塊り〟が
疼いているのを感じることがある。
以前の僕は、
それは分離のエクスタシーだと思っていた。
しかし、それがあまりに〝神っぽい〟ので、
あるとき、罪悪感が上がってきた際、
そのエクスタシーの正体を見極めようと、
いっきにその罪悪感の中へダイブしてみた。
「ザ・イ・ア・ク・カ・ン感じて、るぅーっ!
ひいぃー!ううぅーっ!お、お、おーっ!」
すると、その毒素のような気持ち悪さの裏に、
法悦のようなエクスタシーが流れていて、
それが不快感に変換されている様子がうかがえた。
まるで、透明なお湯がコーヒーフィルターを通って
苦い苦いコーヒーに変わるみたいに…。
そのとき、罪悪ってエクスタシーなんだと思った。
ある意味僕たちは、
神の想い(ハートのオーガズム)を感じるために
罪悪を使っていたんだ、と…。
現実の何かが原因で、
罪悪感を感じているのではなく、
罪悪を感じたい(神の愛を感じたい)がために、
きっかけとなる出来事を探している。
別の言い方をすれば、
神を感じるために自我を使っている。
なんかもう、結局僕たちは、
神の中にしかおらず、神しか感じられなかった。
罪悪感を見るという行為は、ある意味、
神を凝視する行為なのだ。
だから、罪悪感を嫌っていたのだ、と…。
だからもう全部受け入れる。
罪悪感➔不快➔神から離れている➔絶望➔
そんな自分が嫌➔聖霊兄貴➔でもまだ不快
と、何とかしようとするのではなく、また、
聖霊兄貴にただお願い、でもなく、
罪悪感をも神として受け入れてゆくのだ。