自分は、
神から完全に赦され、愛されている完璧な存在だ
という本当の知覚が復活してくると、
これまでの自分が、
いかに狂っていたかを思い知らされる。
例えば、
突然、生活に大きな変化が起きたり、
失業したり、大切な人と別れたり、
やれていたことが急にできなくなったりすることが
本当は聖霊兄貴がもっとよいものを与えようと、
導いてくれているのかもしれないのに、それが、
僕達には、失望や損失として体感されたりする。
そんな時、失うことを極度に恐れる僕たちは、
変化が起きないように、職を失わないように、
大切な人がいなくならないように、
今と同じ状態がずっと続くように、
必死で、我慢し、抑圧し、
他者(幻想側)の意に沿って行動するようになる。
そして、いつの間にか、
閉じ込められているその場所が、
自分だけの幸せな場所だ、と勘違いしてしまう。
僕の場合、会社勤めこそが、まさしく、
自分で自分を幽閉した〝牢獄〟となっていた。
香港で多くの会社の福利を受けながら駐在し、
語学のスキルを活かしながら出張へも行けて、
そこそこ遣り甲斐のある職場ではあるが、
自分が本当は何者であったかを知った今、
それでも、ここに居たいか、と言われれば、
答えは〝ノー〟である。
自分は無限の全体そのものであり、
全ての力が自分に在ると解かったことで、
自分の中に決断のパワーが戻ってきたのだ。
ただ、誤解を避けるために言っておきたいのは、
本当にその仕事や職場が大好きで
会社勤めをしている方もおられるので、
これはあくまで、
〝僕の場合〟ということである。
また、現実に行動レベルで、
会社を辞めたり、何かを手放すことが、
自我を手放すことだ、と言っているのでもない。
本当の自分が、
無限の神の子だったことに気づいたはいいが、
肉体を持っている間はまだ、
この夢の世界に居続けねばならないとしたら、
自分は〝ここ〟に居たいだろうか、という、
素直な自分への問いかけである。
なぜなら、僕は今まで、
平安を失うことが怖い、と思っていたが、
本当は、牢獄を失うことが怖い、
と思っていたことに、今更ながら気づいたのだ。
牢獄に天国を見出そうとしていた。
ただ、このことに気づくには先ず、
背後の神(無限の自分)に気づくことが先決だ。
もし、自分の中に愛を見い出さずに、
牢獄だけに気づいたら、それこそ地獄である。
そして、
その牢獄には鍵がかかっていなかったのだ!