👆 ジムが閉鎖されているので、
多くの人が屋外施設で体を鍛えている
スピをやっている人、特にコース兄弟の中には、
自分が何かに腹を立てたり、言い返したり、
誰かを批判したりすることに対して、
大きな罪悪感を抱いてしまう人がいる。
そういう〝負〟と言われる感情が出てきた途端、
瞬時に〝ダメッ〟と抑え込んでしまう。
そして、その抑え込んだ感情を、
〝間違っている〟〝幻想である〟として、
聖霊に捧げて赦そうとするが、気分は晴れず、
逆に、そんなことを思った自分を責めたりする。
僕も、
コンババ部長と〝すったもんだ〟していた頃は、
いつも心の中で葛藤を起こしていたが、
その罪悪感を直視すればするほど、
恐怖と不安感で胸がバクバクした。
後に、背後でいつも優しく寄り添ってくれている
神や兄貴に気づき、愛で満たされ、
自分がこの夢の世界で何をしでかしたとしても、
無条件で愛されているという〝自信〟を
取り戻してからは、世界が一変してしまった。
まず、怒りや批判や不安そのままでも神だ、
と理解できるようになった。
なんていうか、ケンカしていても愛し合っている、
思い切り噂話や批判をしまくっていても有り難い、
バカ野郎ーっ、と罵りながらも大好き、みたいに、
ケンカすることと愛し合うことが同じ、というか、
批判することと褒めることに差がない、というか、
馬鹿野郎と愛しているの間に矛盾を感じない、
というか、どちらも神の愛として見えてくる。
せっかく、
神が〝どやっ!〟と顔を出してきたところを、
〝それはダメっ!〟と、蝿タタキでバシンッ、
とやるように、負の感情を叩き潰していた。
しかし、本当は神の想いを叩き潰している。
それは、本来愛であるものを、
エゴで歪めてしまっているんですよ、とか、
自分が地獄にいることをまず認めて、
といった、なんちゃらかんちゃらはもう、
一旦横に置いて、先ずは、
どんな自分もそのまま愛として受け入れる。
それが、今、ここに在る神に抵抗しない、
ということの意味である
そうやって、あらゆるものを神として、
そのままの自分を受け容れてゆくと、
不思議なことに、自我男だと思っていたものが
ぱかっぱかっと、聖霊に反転を起こしてゆく。
結局自我男も、拗ねた愛の裏返しに過ぎない。