どうやったら、今に気づき、神に気づけますか、
どうやって、聖霊の声を聞けばいいのですか、
どうやって、罪悪感を赦してゆくのですか、
奇跡講座だけではなく、他のスピに於いても、
〝どうやって〟実践すればいいのか、は、
大きなポイントになっているのではないだろうか。
かくいうこの僕も、奇跡講座を学び始めた頃は、
赦しの概念とか意味はあとでゆっくり学ぶから、
とりあえず、赦しのやり方、を教えて欲しい、
と思っていた。
例えば、
①まず気づき②次に委ねて③最後は見過ごす
というふうに、これをやりさえすれば、
罪悪感は消えて天国に帰れるんですよね、
みたいな手っ取り早いマニュアルを求めていた。
しかし、なんか、うまくいかない。
次々とその〝やり方〟に対する疑問が出てくる。
〝どうやって〟がどこまでもループしてゆくのだ。
「他人の中に罪悪を見たときはどうすれば?」
「自分の背後の無限の全体に意識を向けよう」
「どうやって意識を向ければ?」
「今、この瞬間にいてください」
「じゃあどうやれば、今この瞬間に留まれるの?」
「今、見えているものに集中してください」
「どうやれば集中できますか?」
「じゃあ、呼吸を感じてみてください」
「雑念が浮かんできたら、どうするんですか?」
とまあ、こんな感じで〝どうやって地獄〟は、
どこまでも続いていく。
まあ、多くのスピ先生やマスターの方々は、
この〝どうやって〟を云々することで、
お金を稼いでおられるわけだが、
この〝どうやって〟の思考自体が自我である、
と僕は思っていて、もうお分かりの通り、
これをやっている限り、どこへもたどり着けない。
僕の場合、どうやればいいのか、が出て来た時、
これはどういう〝感じか〟に意識を向ける。
なぜなら、この〝感じる〟という行為には、
〝どうやって〟が必要無いからである。
なんかうれしい、なんかムカつく、これ美味しい、
あの人悲しそう、不安でドキドキ、など、
感じることは誰だってフツーにできる。
どうやって感じるの?とはならない。
また、これらの感じは、
背後を激流のように流れている天国の愛の想い
ハートの悦(エクスタシー)そのものであり、
元来僕たち神の子に備わっている機能である。
だから、
何かに対して〝どうやって〟が出てきた時、
また、誰の言っていることが正しいかと思った時、
自分の中でどんな感じがするかを先ず感じる。
優しい愛の感じが流れているかを感じてみるのだ。
結果、他の人全員がAと感じているのに、
自分はBと感じていたなら、Bが正しい。
これは奇跡講座の学びについても言えることで、
たとえ、権威あるコース教師の誰々さんが、
「これはCなんですよ」と言っていたとしても、
自分の中に少しでも、あれ?、と、
違和感を感じれば、
権威ある誰々さんのCを受け容れなくていいのだ。
性格、生い立ち、声、顔、背格好、得意分野、
人それぞれみんな違っていれば、
感じ方も違っていて当然である。
完璧に人と同じように感じることなど
不可能であり、自分のこの感じ方は、
自分だけのものであり、
怒りまくっていようが、嫉妬しまくっていようが、
世間の型と違う自分を、ダメだ、
と思うことなどこれっぽっちもないのだ。
なので、みんな最初は、
自分だけの感じ方から神に繋がればいい。
そして最後には、みんな、
〝ひとつの神の感じ方〟にたどり着く。