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今、この夢を見ているのはあくまでも〝わたし〟であり、
ゆえに、これは〝わたし〟が見ている夢の物語である。
なので、自分の夢に出てくる登場人物は一人残らず、
それがどんな大人物であろうと、カスな奴であろうと、
ただの登場人物で、それ以上でも、それ以下でもない。
言うなれば、
自分以外全員エキストラ、つまり、通行人Aなのだ。
それなのに、僕達は大抵、エキストラを主役にしている。
本来は自分が夢を見ている者(主役)なのに、
見られている者(エキストラ)の方にその座を譲っている。
寝ている時に見る夢を思い出せばわかると思うが、
夢のストーリーは常に、支離滅裂でハチャメチャである。
なのに、夢を見ている最中は、なぜかそれを信じており、
自分の中では話の筋が通っていると思い込んでいる。
要するに、眠っている時に夢を見るのと同じ状態、
夢を見ている者が、これは夢だと認知していない状態、
エキストラに振り回され、主体が不在の状態、
それが、認知症の状態、つまり、今の僕たちである。
逆に言えば、認知症の人とは、自分が無くなり、
夢の登場人物が主役になっている人のことである。
パートナーの心ない言動に一瞬殺意を抱いた、
親を馬鹿にする自分の子供の態度にマジ切れした、
いつも雑用ばかり押し付けてくる同僚にムカついた、
こんな思いに、キキーッ、となっているそこのあなた、
それって、うちの認知症の父親が、母のことを
〝わしの金を盗む泥棒〟と認知して罵るのと同じ、
認知症の症状を発症中なだけですから…
本当は、そんなことなど一切起こってなく、
父のお金はそこにあり、母はただテレビを見ている。
「ああ、おいどん、ただ勘違いしとっただけばってん…。」
と、自分がすでに神の中にいたことに気づくだけなのだが、
まあ、そんな簡単に行けば、今頃全員神の国でごわす。
(って、なんで急に鹿児島弁?)
まあ、究極的には、多くのコース教師が言うように、
「そんな夢を見ている自分すらもいないんですよ」
「本当は神と同じ霊(スピリット)の存在なんですよ」
ということになるのだろうが、よく考えてみてほしい。
まだメシを食ってない、と駄々をこねる認知症患者が、
いきなり神へなど、シフトできるわけがないではないか。
「密かな罪悪感に気づいて、それを聖霊へ明け渡し…」
なんて、そんな高度なミッション、
うちの父親にやれと言っても無理なのと同じで、
すでに認知し損ねている者にとっては至難の業だ。
なので、一気に神の方へ向かおうとするのではなく、
先ずは、夢を見ている自分に力を戻すことから始める。
エキストラに明け渡していた主役の座を、
自分の方へ取り戻すのだ。
それには、カスな相手に怒り爆発してしまった自分、
娘や息子にナメられまくって怒り心頭な自分、
人の目を気にして何も言えない自分、に対して、
一切抵抗しないでいることである。
怒りは怒りのまま、抵抗せずに夢の目撃者であることで、
エキストラをエキストラとして、通行人Aを通行人Aとして
眺める(見過ごす)ことができる。
なにはともあれ、主役の私を中心(いま)に置くこと。
自分が言うべきことはきちっと言えるようになること。
神の愛を感じでどうの、自分なんかなかったこうの、
というのは、自分が中心に戻ってからの話である。