昨夜、夜更かししすぎ、今朝はチトきつかった。
ホームドラマチャンネルのクラウド録画で、
『怨み屋本舗』をイッキ見してしまったのだ。
こうして色んなドラマをイッキ見できるようになると
週一で見るのが、うざったく感じられてくる。
ああ、今夜もまた、夜更かしか…。
というわけで、通りを行き交う人々や風景から、
優しい愛の〝感じ〟が感じられるようになり、
ようやく無限の存在が戻ってきた。
一切の抵抗を止め、今この瞬間に留まっていると
聖霊も、自我も、愛も、憎しみも、ハートも、神も、
ビッグバンの瞬間も、夢が削除される瞬間も、
全てが〝今の縦軸〟に畳み込まれており、
同時に存在していることが分かる。
なので、たとえ今、不安や恐怖を感じていても、
また、喜んでいても、安らいでいても、全部が、
〝今〟という一つの中で起きている。
つまり、それらは同じものであり、
どうであっても何の問題もなく、
問題がないことに気づいてはじめて、
それは起こっていない、と自覚できる。
今日、会社を出てバス停でバスを待ちながら、
ぼーっと、夕暮れ時のビル群を眺めていた時、
ふと、この景色は一体誰が見ているんだろう、
と思った。
自分(わたし)が見ている、と思ってきたけれど、
ひょっとして、何かを見ている誰かなんて、
はなからどこにもいないんじゃないか、と…。
世界は見えているけれど、見ている主体が不在、
という不思議な感覚の中、
僕は一人、バス停に立ちすくんでいた。
人々に反映されている神の優しい感じや、
暮れなずむ街並みに反映されている安らぎを
感じている誰かなどどこにも存在せず、
優しい感じ、安らいだ感じ、だけが溢れている。
そしてその〝感じ〟こそが、無限の自己であり、
神の想念なのだった。