自分に気づいている時に湧き上がってくる、
ハートのエクスタシーが、
春の陽気のように、穏やかで平安で、
それでいて、植物が一斉に息吹く時のような
ウキウキした感覚の流れだとすれば、
神の法悦感は、こみ上げる性衝動のような、
激しい愛の感覚である。
そして、僕はこれまで、これら二つの感覚を、
強いか弱いかの違いこそあれ、
基本的には同じものだ、と捉らえていた。
しかし、ここへきて、この二つの感覚は、
全く違う方向性と性質をもっており、
この二つの性質が等化されて初めて、
父が住む故郷へ戻って行く力になるのだ
という理解が起こった。
というのも、
ハートの流れの中でたゆたっている時は、
至福で平安ではあるのだが、ただそれだけで、
ずっとそこに留まっている感覚がある。
一方、神の法悦の中に入っている時は、
神から無条件に愛されているという、
至高のエクスタシーはあるのだが、
どこか不安定で、拠り所がない。
(あくまでこれは僕個人の感覚である)
ハートは穏やかに根付き、
神の愛は激しく能動的に広がってゆく。
それで、気づいたのだ。
このハートの安定感が土台にあってこそ、
この激しい神の愛の思いもまた、ぐらつくことなく
きちんと方向性をもって上昇してゆけるのだ、と。
本当にうまく説明できなくて申し訳ないのだが、
ある意味、
ハートは女性的で、神は男性的だ。
神を〝父〟と呼ぶのはこのエネルギーの性質が
反映されているのかもしれない。