👆 近所に立ち食い寿司屋がオープン
奇跡講座の実践の中で、
最もうまくいかなくて悩むのが、
沈黙する、解釈しない、自分でやらない、
一歩下がって道を空ける、兄貴に委ねる、
といった、自分を消す系の実践だろう。
いくら、
これは頭の中だけの実践です、と言われたって、
こんなこと、実際にできる人なんているのか、
と思ってしまう。
リトリートとかで理論だけ聞いている分には、
ああ、そうだそうだと理解できても、
日常で実践するとなると、なかなか難しい。
ていうか、無理だと思う。
何の解釈もせずに仕事なんてできないし、
ヤンチャをしまくる子供を前に、
一歩下がって子育てができるとも思えない。
じゃあ、いわゆる、実践ベースで言うところの、
自分でやらない、解釈しない、一歩下がる、
とはどういうことなのか、と考えてみたところ、
それは〝どうやって〟を考えないことだ、
という結論にたどり着いた。
例えば、ある女性が、素敵なパートナーと、
大恋愛をして結ばれたい、と思ったとする。
相手はこんな感じの顔立ちで、性格はこうで、
自分のことをとても愛してくれる優しい人で、と、
理想のパートナーのことを思い描いただけで、
ワクワクウキウキし、幸せな気持ちになる。
こうして、そうなった時の感じを味わっている瞬間
彼女は自分の望みに何の抵抗も持っておらず、
ただ神の中で、ただ歓びを感じているだけ、
の状態にあると言える。
本来は、そこで愛を感じていればいいだけ、
な筈なのに、僕達はたいがい次の瞬間、
〝じゃあ、どうやって〟と考えてしまう。
マッチングアプリに登録してみる?
お見合いパーティーに参加してみようか?
ちょっと気になる職場のあの人はどうかな?
こうして〝どうやって〟を考えた結果、
次に、○○があるから、という想いが出てくる。
もうこの年齢だから(➡恋愛は無理だ)
田舎に住んでいるから(➡そんな男性はいない)
わたしは美人じゃないから(➡ふさわしくない)
子供がいるから(➡人に何て言われるか)
だからダメとなり、瞬殺で歓びが打ち消される。
素敵な人と恋愛して結ばれたい、
を呼び水にして、せっかく神の気配を感じて
今、この瞬間にある歓びを味わっているのに、
〝どうやって〟を考えた瞬間、神がいなくなる。
このことに気づいてから、僕は仕事中でも、
どうやって、を考えないようにしている。
来週のことは来週のその時に考えればいい、
どうなるかなんて誰にもわからない、と…。
仕事が忙しくて、てんてこ舞っている状態でも、
今この瞬間だけを見れば、今やっている作業は、
今やっているそれしかない。
どうやってこれを今日中に終わらせよう、
あれもこれもあるから無理だ、と思うから、
苦しくなって不安や緊張が出てくるのだ。
それよりも、ちょっとコーヒーで休憩して、
もっとこんな環境で働けたらいいなあ
本当はもっと自由を感じるこんあ場所に居たい、
と、ちょっとウキッとできる望みを感じることで、
無限の全体に在れるようになる。
これが、今の僕にとっての、自分でやらない、
兄貴に委ねる、解釈しない、ということの
実践となっている。