僕はこのブログでよく、
自分で決断する、とか、自分を責めるな、とか、
自分に訊く、というようなことを書いているが、
この〝自分〟という言葉にとても抵抗を感じる
コース兄弟も多いようである。
「自分が決めるのではなく、決めるのは聖霊です」
「何かを責めている自分などいないんです」
「自分に訊いた答えは全部間違っている」
みたいな…。
しかし、敢えて反論を恐れずに述べるならば、
こう言っている時点で、
自我の自分を実在させていると言える。
内なる神(無限の全体)の愛へと向かう時、まず、
自分というフィルターを突破しなければならない。
平安なんか望まない、と決めている自分、
自動反射的に自分責めに陥っている自分、
愛を渇望して泣き叫んでいる自分、
これらの自分を一切すっとばして、
そんな自分なんて無いんです、と無視しながら、
いきなり、聖霊~、神~、とやってもダメなのだ。
何で自分がこんな幻想の世界を創ったのか、
そこにはどれほどの恐怖があったのか、
どれだけ父の愛を求めて苦しんできたのか、
ちゃんと耳を傾け、癒してやる。
その上で、この世界は夢だったんだ、
罪なんかもともと犯してなかったんだ、
いまも変わらず父から無条件で愛されている、
ということを〝感じさせて〟やるのだ。
(言い聞かせたり、教えるのではない!)
というのも、自分をないがしろにして、
「聖霊、これをどうしたらいいか決めて下さい」
「聖霊、この罪悪感を取り消して下さい」
「聖霊、私が間違っていることを教えて下さい」
といくらやっても、これらの言葉を発している
〝自分〟が全く癒されていない状態なので、
聖霊に思いが届くはずがないのだ。
なので、自分は本当は何が食べたいのか、
何を見たいのか、本当はどうしたいのかを、
聖霊に訊く前に、自分に聞く。
自分を愛し、自分に優しく寄り添う。
そうやって、静かに自分の中を感じていると、
不変で凛としていて静かな確固とした存在である
〝自分〟がいるのを発見できるだろう。
神しかない、神だけが在るのであれば、
愛を求めて叫んでいる〝自分〟もまた、
〝神が顕われた姿〟のはずである。