香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

自分について

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僕はこのブログでよく、

 

自分で決断する、とか、自分を責めるな、とか、

 

自分に訊く、というようなことを書いているが、

 

この〝自分〟という言葉にとても抵抗を感じる

 

コース兄弟も多いようである。

 

 

「自分が決めるのではなく、決めるのは聖霊です」

 

「何かを責めている自分などいないんです」

 

「自分に訊いた答えは全部間違っている」

 

みたいな…。

 

しかし、敢えて反論を恐れずに述べるならば、

 

こう言っている時点で、

 

自我の自分を実在させていると言える。

 

 

内なる神(無限の全体)の愛へと向かう時、まず、

 

自分というフィルターを突破しなければならない。

 

平安なんか望まない、と決めている自分、

 

自動反射的に自分責めに陥っている自分、

 

愛を渇望して泣き叫んでいる自分、

 

これらの自分を一切すっとばして、

 

そんな自分なんて無いんです、と無視しながら、

 

いきなり、聖霊~、神~、とやってもダメなのだ。

 

 

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何で自分がこんな幻想の世界を創ったのか、

 

そこにはどれほどの恐怖があったのか、

 

どれだけ父の愛を求めて苦しんできたのか、

 

ちゃんと耳を傾け、癒してやる。

 

その上で、この世界は夢だったんだ、

 

罪なんかもともと犯してなかったんだ、

 

いまも変わらず父から無条件で愛されている、

 

ということを〝感じさせて〟やるのだ。

 

(言い聞かせたり、教えるのではない!)

 

 

というのも、自分をないがしろにして、

 

「聖霊、これをどうしたらいいか決めて下さい」

 

「聖霊、この罪悪感を取り消して下さい」

 

「聖霊、私が間違っていることを教えて下さい」

 

といくらやっても、これらの言葉を発している

 

〝自分〟が全く癒されていない状態なので、

 

聖霊に思いが届くはずがないのだ。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

 

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なので、自分は本当は何が食べたいのか、

 

何を見たいのか、本当はどうしたいのかを、

 

聖霊に訊く前に、自分に聞く。

 

自分を愛し、自分に優しく寄り添う。

 

そうやって、静かに自分の中を感じていると、

 

不変で凛としていて静かな確固とした存在である

 

〝自分〟がいるのを発見できるだろう。

 

 

神しかない、神だけが在るのであれば、

 

愛を求めて叫んでいる〝自分〟もまた、

 

〝神が顕われた姿〟のはずである。