会社に勤めていた頃は、金額を気にしながら、
お金を使ったことなどなかったのだが、ここへきて
もう少し倹約すべきなんじゃないか、という思いが
ふつふつと湧いてくるようになった。
というのも、自分の貯蓄のほとんどは、
日本国内の銀行口座に蓄えられており、
物価がバカ高い香港での無駄遣いを避けるため
敢えてネットバンキングも申請しておらず、
よって、自由にお金を動かすことができない。
なので日本へ帰国するまでの二か月の間、
香港の銀行口座にある貯金のみで、
なんとかやりくりをせねばならないのだ。
しかし、実際はどうかと言うと、
家賃と引っ越し代を差し引いてもまだ、
余裕でやっていけるだけの残高はあるのだ。
それにもかかわらず、
収入が無いのに支出だけが続くことへの不安感
香港のくそっ高い物価に対するもったいない感、
(卵ひとパック500円/キッコーマン醤油700円)
出したら無くなる、という欠乏感、といった、
自我のささやきにビュンビュンしまくったりする。
ほとんどの時間を、
神そのものの中で過ごしているのに、
ふっと気を抜くと、即行神から離れて眠ってゆく。
なので、常に自分が何を感じているのかを観る。
そして、あれ?と気づくたびに神を思い出す。
自我に警戒する、とはこういうことなのだろう。
👇 飛び回っていたあの時代。懐かしすぎるーっ!
いや、節約することは悪い事でも何でもない。
やみくもにお金を使い続けるのはただの浪費だし
倹約をして、物価高騰に対処することは必要だ。
(きっと、小室眞子さんもそうしているはず…)
なので、
どう行動すべきか、を言っているのではなく、
また、どんな〝考え方〟をしているか、でもなく
その行動や考え方の底辺に流れている、
不安感、恐怖、後ろめたさ、焦り、緊張感、
といった〝感覚〟を観てゆく。
何を〝感じているか〟を観てゆくのだ。
なぜなら、これらの感覚が内側に先にあって、
外側に〝お金がない〟が現われている。
そうやって、自分が感じている恐怖の正体が、
実は愛が裏返ったもの(=愛)であった、
と認識し直せたとき、背後で神が復活する。