👆 退職金6000万円元公務員友人から
誕生日プレゼントをもらった。
ナイキのエアマックス、スポーツサンダル
愛でできたサンダル…
数日前の記事では、
自分があらゆるものの全てとして存在している、
というふうなことを書いたが、今はもっと進化し、
自分は光の粒子(=素粒子)そのものだった、と、
認識するまでになってきている。
それは単なる、
概念や考え方からくる形而上学的な理解ではなく、
まさに存在の在り方としてそう感じられている。
自分が光の素粒子それ自体である、
という知覚が芽生えてくると、
物質世界のことは自由自在にどうにでもできる、
という感覚が強くなってくる。
例えば、こんなテーブルがほしいな、と思えば、
素粒子が、ぐわぐわっ、と波のように動いて、
さっとテーブルになる、みたいなイメージである。
自分は素粒子をコントロールしている者ではなく、
そもそも光そのもの、素粒子そのものなのだ。
そういう意味で、自分はテーブルであり、
世界であり、宇宙それ自体である、といえる。
よく、光として存在する、と言われたりするが、
それは、自分自身が、陽子や中性子や電子、
またもっと小さなクオークやフォトン、といった、
素粒子そのもので〝在る〟ことを示唆している。
素粒子の本質は、愛と調和、意識と意志であると
足立育朗氏は著書『波動の法則』の中で
述べているが、僭越ながら、
僕がそれに一言付け加えさせていただくならば、
素粒子自体が真の自己の反映であると言える。
自分が光として存在するようになったとき、
すべては愛でできていることが体験できる。