👆 香港島の南、
ケネディータウンから見た風景
ランニング瞑想(ヘタレバシリ)をしていると、
次々にただ思考や想念が浮いてくるだけで、
それを見ている自分がいない感覚になる。
どんな感じかというと、
しんどいなあ、という思いが湧いている➡
しんどいなあ、という思いが湧いている、
という思いが湧いている➡
しんどいなあ、という思いが湧いている、
という思いが湧いている、という思いが湧いて…
というふうに、思いだけがどこまでも続き、
それを思っている主体を見つけられないのだ。
これまでは、これは自我の想念であり、
自分というものが実在しない証拠だと思っていた。
だから、今この瞬間にいて、神を感じるのだ、と…。
しかし、
それらの想い自体がそのままで神の想いであり、
これ以上、何もする必要はない、と〝悟った〟。
僕たちが自我を選んだために、神の想念を歪め
それでこのような思いが出てきているのではない。
それこそが〝ストーリー〟だ。
罪悪感は罪悪感で完璧な〝愛の想い〟なのだ。
何にも変える必要がないし、手放す必要もない。
問題は、
それを罪悪感だと思い込んでいることにある。
神、とか、無限の全体、という言葉にのっかかり
そういう存在や領域があるように思って、
そこへ繋がろう、としていた時期があったが、
僕らが日常感じている、恨み辛み、憎しみ、嫉妬
も神の想いそのもので、愛に変える必要もなく、
もうすでに完璧な愛なのだ。
神は存在ではなく、存在の在り方であり、
ここに湧きおこっている想念そのものであり、
だからこそ、知ることができない(不可知)なのだ。
神が存在ではなく想念だとわかったら、
何を思っていても神しかないのだから、
僕たちはこれ以上何もできない。
任せるとか、委ねるとか、抵抗しない、でもない。
そんなことをしたらすでに何かをしている。
任せなくても、委ねなくても、抵抗していても、
今、起こっていることをただ〝生ききる〟だけ。
実際にはそれしかできないし、それこそが、
〝神の想いを生きる〟ことである。
それでいくと、殺人者も、その被害者も、
虐待父母も、虐待された子供も、それでいいのか
という人が出てくるのだが、それこそ、
外側のカタチだけを見ている。
かわいそう、許せない、なんていうひどいことを、
地獄に落ちろ、もまた、神の想念であり、
その思いを生ききることしかできない。
こうやって起こっていることを生ききっていると、
不思議なことに、
あらゆることがスムーズに運ばれてゆく。
たとえ今すっごく何かに苦しんでいても、
その苦しみさえも神でそれそのものだった、
と認識が起こり、そこを生ききっていれば、
すべてが完璧に運ばれ、結果、え、なんで、
こんなすごい結末に…と人智を超えた結末となる。
非二元で言われる、ただそれが起きているだけ、
ではなく、神が起きているだけ、すなわち、
愛が起き続けているのだ。
愛が起きているとは、すごいエクスタシーなので
世界はないんです、チーン、なんてあり得ない。
僕たちはそれを自我だと認識していたが、
もう、自我を何とかしようとしなくていい。
多分、文章では到底伝わらないと思うので、
近々、久々に深夜の香港を徘徊しつつ、
インスタライブをしようかなと思っている。