お籠りを終え、今週はゆったりのんびりしている。
午後は、近所のカフェで小説の創作をし、
夕方からは裏の競馬場でランニングをし、
(専用のランニングウェアまで買っちゃった!)
夜は、北京オリンピックのフィギュアスケートを
見たりしながら過ごしている。
羽生選手、スケートで生き様を表現している。
ショートプログラムの際、ジャンプの瞬間に、
別の選手が作った氷の穴にハマり、
4回転が1回転となって無得点となってしまった。
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ジャンプが失敗しても、成功しても、きちんと、
その瞬間瞬間を生き切って決着をつけている。
三連覇はならなかったが、それでもそれが完璧で
その事実で終了している。
見えているもの、聞こえているもの、
感じているものの〝在りよう〟だけでいると
(首の上に乗っかっている世界だけでいると)
どんなことも、今この瞬間に完璧に終わっていて
何の問題もなかったことがはっきりしてくる。
全ての事が瞬間瞬間に見事に消え去っている。
それを、まるで、今もあるかのようにとらえ、
苦しんでいることに問題がある。
すべては最善なんだ、と捉えようとする自分、
何かを学び、気づこうとする自分、
これはどういうことなんだ、と探りに行く自分、
この自分が問題であり、不要である。
そういうと、自分を手放そうとしてしまうが、
それもまた、探りに行っている。
最悪な事態が展開されていても、
世にも不運な出来事に見舞われていても、
その瞬間の〝存在のあり方〟が神である。
もうすでに救われているのだ。
自分の目に映っている風景や人々は、
他の誰かの目を通してみているわけでもない、
自分の真実を映し出している自分だけの世界だ。
事実そのもの、自分の様子そのまんま、である。
そしてそれを見ている自分はどこにもなく、
そのあり様そのもの(首の上の世界)だけが、
事実であり、愛として表われている。
仕事で何か失敗をしてくよくよ気にしていたり、
人の意見に左右される自分を嫌悪したりするとき、
それでいい、何も起こってない、受け入れるんだ
そんな自分はいない、委ねて手放すんだ、
とやっている限り、絶対に終われない。
言い聞かせている自分が〝いる〟時点で、
すでにアウトなのだ。
くよくよし気にしているその在りようが真実である。
恐怖を手放すには、恐怖そのままで悶絶しきること。
嫌悪して悶絶している自分を生き切っているとき、
そこに個人の自分は存在せず、ありのままが現れる。