二つ前の記事で、首の上に世界が乗ってる、
という記事を書いたが、よくよく考えてみると、
個人の自分は全て、首から上に存在している。
目(見ること)、耳(聞くこと)、鼻(匂うこと)、
口(味わうこと)、肌(感じること)、脳(考えること)
みんな首から上の活動として機能している。
もし、首から下だけの人が歩いていたら、
それが誰かを認識できないだろう。
また、僕たちは、目、耳、鼻、口、肌、脳、によって
自分を自分だと認識して(思い込んで)いる。
しかし、
これら5感の活動の中に自分はいるだろうか?
そもそも、
自分の首から上を直に見たことがあるだろうか?
直接確認できていない自分の目や耳を、
どうして〝ある〟と確信できているのだろうか?
鏡や、映像や、指で直接触れた顔や頭は、
本当に自分の顔や頭なのだろうか?
こうして、目や耳の存在を介さないでみると、
見えているそのもの、聞こえているそのもの、
味わっているそのもの、匂いそのものが、
一つの活動として首から上で展開されている。
自分なんかどこを探してもおらず、
そこにはただ、5感の活動があるだけである。
また、
赤いリンゴが見えた時、目はそのままを伝える。
決して、赤いものを青に変えて伝えたりはしない。
パンという音を聞いたとき、耳はありのまま伝える。
〝パン〟を、勝手に〝ポン〟に変えたりはしない。
舌も、甘い、を、酸っぱいと主張することなどない。
ただ真実を、その通りああるがままに伝えている。
そして、その不変であるがままの活動そのものが
真実であり、愛であり、神である。
というわけで、探求が止んでしまった。
どこかに、もっといい何かがあるのではないか、
と探求してゆく気持ちが失せてしまったのだ。
それは、スピだけではなく、現実の生活も然りで、
いま、ここにある、この事実しかない。