香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

探求の終わり

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二つ前の記事で、首の上に世界が乗ってる、

 

という記事を書いたが、よくよく考えてみると、

 

個人の自分は全て、首から上に存在している。

 

目(見ること)、耳(聞くこと)、鼻(匂うこと)、

 

口(味わうこと)、肌(感じること)、脳(考えること)

 

みんな首から上の活動として機能している。

 

もし、首から下だけの人が歩いていたら、

 

それが誰かを認識できないだろう。

 

また、僕たちは、目、耳、鼻、口、肌、脳、によって

 

自分を自分だと認識して(思い込んで)いる。

 

 

しかし、

 

これら5感の活動の中に自分はいるだろうか?

 

そもそも、

 

自分の首から上を直に見たことがあるだろうか?

 

直接確認できていない自分の目や耳を、

 

どうして〝ある〟と確信できているのだろうか?

 

鏡や、映像や、指で直接触れた顔や頭は、

 

本当に自分の顔や頭なのだろうか?

 

 

こうして、目や耳の存在を介さないでみると、

 

見えているそのもの、聞こえているそのもの、

 

味わっているそのもの、匂いそのものが、

 

一つの活動として首から上で展開されている。

 

自分なんかどこを探してもおらず、

 

そこにはただ、5感の活動があるだけである。

 

 

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また、

 

赤いリンゴが見えた時、目はそのままを伝える。

 

決して、赤いものを青に変えて伝えたりはしない。

 

パンという音を聞いたとき、耳はありのまま伝える。

 

〝パン〟を、勝手に〝ポン〟に変えたりはしない。

 

舌も、甘い、を、酸っぱいと主張することなどない。

 

ただ真実を、その通りああるがままに伝えている。

 

そして、その不変であるがままの活動そのものが

 

真実であり、愛であり、神である。

 

 

というわけで、探求が止んでしまった。

 

どこかに、もっといい何かがあるのではないか、

 

と探求してゆく気持ちが失せてしまったのだ。

 

それは、スピだけではなく、現実の生活も然りで、

 

いま、ここにある、この事実しかない。

 

 

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