〝春節お籠り1日15時間瞑想祭り〟のあと、
自分というものがポーンと抜け落ちてしまった。
全ては今この瞬間に完全決着していて、
完璧に終わっていて、何の問題もない、
ということがはっきりしたまま生きている。
気づいている意識とか、神の愛を感じている自分
というような〝見ている主体〟がなくなってしまい、
真実それ自体(神)の活動だけがただ在る。
しかし、こうやって書いてしまった時点で、
在ると言っている誰かが顕われてしまい、
すでに真実ではなくなっているのだが…。
そしてここが形而上学での学びの限界となる。
完全に〝自分という認識〟が落ち切ることなく、
全てがここにあって、僕たちはすでに天国にいる
などと言っても意味がない。
そんな〝私〟など、どこにもいない、
とやればやるほど真実から遠ざかることが、
今回はっきりしたのだ。
父が待つ故郷へ永遠に帰還した、と思ったら、
それもまた夢でした、みたいな…。
頭だけ(形而上学だけ)の理解で進んでしまうと、
このループに陥ってしまう危険をはらんでいる。
見えているもの、聞こえているもの、匂ってるもの
思っているもの、感じているもの、味わってるもの
そこに天国の真相がむき出しになっている。
僕たちは、
見えているものを、聞こえているものを、
私がみている、私が聞いているにすり替え、
それらの完璧な神の活動に対して、
気に入らん、苦しい、変えたい、とやっている。
しかし真実は、気に入らん、苦しい、変えたい、
それだけでもうカタがついている。
何も変える必要がない。