兄貴がランニングを休め、としつこく言うので、
先週はランニングを休み、基本、家で過ごした。
そして、今日、久々にトラックを走ってみると、
左肩が痛むのでどうしてなのか、と兄貴に聞けば、
僕がスマホを左手に持って走っているからだ、
と兄貴は答えた。
そういえば、iPodsで音楽を聴くために、
スマホを手に持ちながら走っていた。
それだと、ずっと左手の関節に力が入り、
結果、余計な負荷が左肩にかかるのだという。
それで明日から、スマホを装着したベルトを、
腕に巻いて走ることにする。
話は変わって、
4月の大阪行きのフライトが危なくなってきた。
今日キャセイのホームページを検索したら、
4月9日に予約していた香港-関空便が、
表示されないのだ。
ええーっ!ひょっとしてまた運休?くうぅーっ!
しかし、その、くうぅーっ、を相手にせずにいると、
くうぅーっ、は、くうぅーっ、でしかなく、
そこで完璧に終了し、決着がついている。
そう言えば今日、
岸田総理がテレビで、一日の入国者数を、
3500人から5000人に増やすと言っていたし、
三回目のワクチン接種を終えた帰国者は、
隔離制限なしにする案を検討するとも言っていた。
こうして抵抗せずにいると、勝手に事が起こり、
世界は、自分なしでも、なるようになってゆく。
(って、ちょっと違うような気が…👈読者)
究極の真理は〝神(愛)は在る〟、
この一言で著わすことができると言われるが、
それは、現に、むき出しのままここに〝在る〟。
ようくようく目や耳で観察すれば、神が在る、と、
目で見えるし、耳で聞こえるし、肌で感じられる。
そして真実は〝これ〟でしかない。
神は在る、とわかっている誰か、もいなければ、
その境地にたどり着くためにすべきこともない。
瞬間瞬間で完結した神そのものがただ在るだけ。
だが〝見よう〟としたり〝聞こう〟とした途端、
そこに自分が立ち顕われ、神が見えなくなる。
瞬間瞬間の展開そのまんまでいると、
これ以上、どこへも行きつかないことが分かる。
これが究極の今この瞬間、である。
4月に日本へ帰れるかな、飛行機飛ぶかな、
だけで、すでに〝神は在る〟が完結しているのだ。
不安や恐れを聖霊兄貴に明け渡して、
取り消してもらおうとすること自体がもう、
ナンセンスナンセンスである。
不安や恐れも神だった、でもなければ、
不安や恐れを受け容れるのだ、でもない。
不安や恐れを感じている自分など無しで、
神はすでに在る、のだ!