👆香港最後の〝修脚〟(足の裏の角質取り)
前回、真実を智るために何もすることはない、
と書いたが、ただ唯一やれることがあるとすれば
首から上で展開されている六感の営み、
その一点に集中し、目を向け続けることである。
すなわち、これはどういうことだろう、と、
探っていこうとしたり、考え方で追求しようとする
〝自分〟の思いを歯牙にもかけず、ただ、
六感(見る/聞く/かぐ/味わう/触れる/感じる)
に注意を向け続けることである。
簡単に言えば、何も考えないことである。
これはどういうことなんだろう、これでいいのか、
これではだめだ、という思いを一切取り合わず、
今この瞬間に耳目をそば立て、注視し続ける。
この無条件の営みは、実践などしなくても、
その通りに見えるようになっていて、
その通りに聞こえるようになっていて、
その通りに味がするようになっている。
勝手に湧いてくる思いだってそうだ。
こいつムカつく、と思ったときは、
間違いなく、ムカつく、という思いだったのだ。
なのに、すぐに、よいか悪いか、好きか嫌いか、
を判断し、そこから罪悪感や優越感を生み、
自ら、どうすれば、と思い悩むのだ。
そんな良し悪しや好き嫌いを一切相手にせず、
目の前にある、見えるまま聞こえるままの営みに
注意を向け続けてみる。
好いか悪いか、好きか嫌いか、
という思いが立ち上がってくる裏に、
過去の記憶がある。
過去の記憶から、良し悪しが出てくる。
しかし、過去の記憶は、過去のその時に、
すでにカタがついて消えていったものである。
会社でテンパっているとき、大失敗しそうなとき、
大切な人を失ったとき、悩み苦しんでいるとき、
僕たちは、なんとか平安に振れ幅を戻そうとする。
しかし、ランニングをしているときに、
家でくつろいでいるときの呼吸でいようとしても、
所詮無理なのと同様、不安なまま平静でいよう
として何かを実践してもそんなの不可能なのだ。
ランニングしている時と歩いている時とでは、
呼吸が違うのは当たり前である。
なので、ランニングをしている時は、
ハアハア息が上がって、それでカタがついている。
だから、緊張しきって、悲しみきって、怒りきって
その時の状況そのものですでに整っているのだ。
これまでの生活の中で、対象だと見ていたものが
実際にはそうでははなかったということ、
何の矛盾のない生きざまができているということ
全活動がそのまま直で営みであるということ、
すでにそれで救われ切っている。