奇跡講座の赦し、座禅の悟り、あやこさんの統合
バシャールのアセンション、引き寄せの法則など、
現在のスピの教えのほとんどは、
何かを実践することでどこかへ到達できる、
というパターンによって成り立っている。
しかし、そのパターンをやっている限り、
どこへも到達しないのは明白である。
それは、何年も修行や実践をしてやっと、
ケーキの味が分かるようになりました、
と言っているのと同様、喜劇だ。
ケーキはケーキとしての味そのもので在り、
それを体得していない人など一人もいないのに、
この味はどういうことだろう、と探りだすと、
ケーキを観察物として捉えるようになり、
ケーキという認識が起きる以前にあった
〝味〟そのものとの間にズレが生じる。
結果、おかしい、ということになって、
そこからさらなる探求が始まる。
様々なスピリチュアルの探求も同様である。
これは何を言わんとしているのだろうか、
これには何の意味があるのだろうか、と
探り始めると、素の営み自体から遠ざかる。
そんなこと無しで、すでに味は味として、
見えるものは見えるものとして、ここにある。
探ろうとする思いを歯牙にもかけずにいると、
もう実相は実相としてここにあるのがわかる。
だが、今のままではだめだ、と抵抗している。
僕たちは、個の自分の意識が納得し、
個の気持ちを満たすものを満足と捉えているので、
どうしても、すでにここに丸出しで展開している、
赦され切った神の気配に気づけなくなっている。
何かのやり方(赦し/統合/瞑想など)
によって救われようとすると、
一時は気持ちよくなったり、平安になったりするが、
そこから一ミリでもずれると、絶対にまた迷いだす。
それで、様々なスピを渡り歩き、
年がら年中微調整をしまくることになる。
満たされている=救われている=赦されている
は、同義語である。
何かをやることで救われることはない。
何にもやらなくても解放されているのだ。
そして、何もやらないとは、
納得しようとする思いに一切取り合わず、
探りに行こうとする思いも一切関わることなく、
首から上で丸出しになってるそのまんまの営みを
瞬間瞬間ケリがついて消えてゆくそのさまを、
ただ〝それ〟だけになって生き切ることである。