問題を抱えて悩んでいる時というのは、どうしても
それを何とかするために行動してしまいがちだが、
行動の前に、何らかの体感があるはずである。
仕事でまたミスするのではと思えば不安になり、
病気のことを考えれば怖くて夜も眠れず、
大嫌いなアイツの顔が浮かんでは怒りに震え、
お金のことを考えただけで憂鬱でたまらない。
仕事、人間関係、健康、家族問題、お金、愛情、
など、みんな何かしら問題を抱えているものだが、
大抵は、それらの問題を概念や考え方で捉え、
どうすればいいかと、頭で悩んでいることが多い。
これがスピ兄弟だと、赦したり、統合したり、
全てを受け入れてみたり、観方を変えてみたり、
感謝をしてみたり、と、様々な実践をしたりするが、
それでも、モヤモヤは失せない。
こんなとき、
やり方に頼って何とかしようとしても無駄で、
過去の知識や未来への推測を起点に
今自分が直面している問題に対処しようとすればするほど
〝今この瞬間の平安〟からずり落ちていってしまう。
不安に襲われ、嫌な気持ちになる、と言うが、
何を以って不安や嫌な感じと言っているのかというと、
そのもとになっているのは〝体感〟である。
明日仕事行くの嫌だなあ、という思いがある時、
胃のあたりにきゅっと収縮する感覚があったり、
ムカムカイライラしている時、毒素のような塊が
胸全体を覆っていたり、不安感に襲われると、
みぞおちがドキドキざわついていたり、と、
肉体のどこかで感覚として捉えている
〝疼き〟があるのだ。
その不快な感覚が、僕たちを対処へと駆り立てる。
でも、落ち着いてよく見てみると、
自殺しかねないような人生の苦しみも、
この体感だけにフォーカスしてみると、
ただみぞおちのザワザワゾワゾワだったり、
ただ頭がギンギンしているだけだったりする。
そしてその不快な体感が、思考や状況と結びつき、
苦しみという〝イメージ〟となって顕われている。
こうして、体感だけにフォーカスしている時、
僕たちは紛れもなく今この瞬間にいる。
その証拠に、強烈に歯が痛い時や胃が痛い時、
体感は「痛い痛い、いたーい!」のみで、
もう、他の事は何も考えられないはずだからだ。
そうやって、考え方の前にある、
今この瞬間の営みが体感となって顕われていることを
明確にすることが〝今この瞬間を赦す〟ことになる。
そういう意味では、
ヴィパッサナーでお釈迦様が悟ったというのも、
なんだか頷ける気がする。