👆 実家の裏に広がるプチフォレスト
あらゆる事象が、雲の流れのように現われては、
赦され切って、跡形もなく消えて行っている、と、
ことあるごとに書いて来た僕であるが、本当は、
コマ切れの映像のように、消えてなくなる訳ではなく、
いつもここに在り、不変で不可知である〝これ〟が、
様々なカタチに変化しているように見えるだけである。
僕のことを例に挙げれば、
三カ月前まで、香港のあの部屋にいたその在りようが、
今実家の自分の部屋にいる在りように変わっているが
これは、香港のあの部屋が立ち現われ、
しばし時空に留まった後に消えて行き、そして今度は、
新たに実家の僕の部屋の様子が現わた、のではなく、
もともと、変わることもなく、消えることもない実相が、
香港の部屋になったり、実家の部屋になったり
しているように〝見えて〟いるだけである。
👇 中国工場奮闘記シリーズ
どう変わったように見えようが、何も変わっていない。
消えて行ったように見えようが、何も消えていない。
何も変わらない実相そのものは常にここにあり、
それが絶え間なくあらゆる形に変化しているように
見えているだけなのだ。
その実相の在りようは、
自分というものを通しては観ることができず、
他者というものを通しても智ることができない。
今この瞬間を通してのみ、その在りようが明確になる。
なので、自分というものなど歯牙にもかけず、
苦しいなら苦しいまま、不安なら不安のまま、
ただ今この瞬間の在りようから逃げないことだ。