今この瞬間は選択と決定の連続である。
今、左の道を行くか、右の道を行くか、
今、塩ラーメンを注文するか、それとも味噌ラーメンか、
今、これを買うか、買うまいか、または、
あの人と会うか会わないか、を、瞬時に決断している。
そして、今を信頼するとは、自分が下した、
これらの決断を100%信頼して肯定することである。
たとえ、ああシクった、と思ってもそれで100%正しい。
こう書くと、今この瞬間に〝在ろう〟としたり、
今を信頼〝しよう〟としたり、あの決断は正しかった
と言いきかせ〝よう〟としてしまうのだが、
今この瞬間に〝気づこう〟としなくても、もうすでに、
どんな人も今この瞬間にいて、それを信頼している。
ただ、普通の人(大阪のおばちゃん)との違いは、
今を信頼することの本質を智っているか否かにある。
こうして、
直接の在りようのまま〝何もせずに〟(👈ここ重要!)
今この瞬間を力強く決断している人は、
すでに赦され切った平安(神)のなかにいる。
じゃあ、直接の在りようのまま〝何もせずに〟って、
いったいどういうこっちゃねん、という話になるのだが、
それは、何かを決断する際、ベタな言い方をすると、
〝まあいっか〟をやめ〝大好き〟で選ぶことである。
実践レベルで見てゆくと、友人数人とカフェへ行き、
一個300円のケーキと500円のケーキがあるとして、
自分は500円の方をすっごく食べたいのだが、
値段も高いし、みんな300円の方を頼んでいるし、
まあいっか、と、300円の方を選んでしまう。
またその逆もしかりで、見栄や体裁で、
高い方を選択する人もいる(👈それ僕かも…)。
そうではなく、その時、どっちの方が〝大好き〟かを、
条件からではなく、本音の気持ちで選ぶ。
お金が無かったら、300円の方を選びながらも、
自分の本音は500円の方が大好き、
と認識をした上で、
「今は持ち合わせがないので私は300円の方を選ぶ」
と力強く決断してやるのだ。
このように、今この瞬間を信頼するとは、
自分を信頼することであり、本質に委ねることでもある。
最初は少々面倒だが、慣れれば、
大阪のおばちゃんのように、
大好きな感覚だけで決断してゆけるようになる。
僕も、12年間勤めた会社を辞めて転職する際、
転職せずに今の会社に残って日本へ帰任するか、
転職して引き続き香港にしばらく留まるか、
で相当悩んだ。
最終的に後者を選んだわけだが、
正直、あの判断はシクったかも、と思う時もあった。
だが今は、やはりその判断が正しかったと確信できる。
もし、過去の自分の判断が間違っていた、と思うなら、
それは、今自分の周囲にいる人や物や環境、
そして自分さえもを否定していることになる。
なぜなら、今出会っている人、今ここにある物、
今の状況は、過去の自分がそう決断したから
今ここに現れているものだからである。
なので、
今の自分の周囲にいる人や物や事を受け入れ、
感謝を送り、愛として見るには、まず、
過去の自分の判断を全肯定することからである。