解釈は距離であり、距離から解釈が生まれる。
1m離れた場所にあるコップを認識する時、僕たちは、
外界の、自分と離れた場所にあるコップを、
自分の目で見ている、と思っている。
だが、その様子をようく観察してみると、本当は、
眼球の中(自分の中)にコップがある、とわかる。
どういうことかというと、
自分の眼球の表面に映っているコップは、
自分の眼球の表面で直接存在している。
いわば、自分と距離ゼロで活動している。
眼球=ダイレクトにコップ、であることが解かれば、
そこに見ている自分が無いこともハッキリする。
救急車の音が聞こえてきた時、
家の外を救急車が走っているわけではない。
直に耳の中で距離ゼロでサイレンが鳴っている。
いわば、サイレンの音は自分の中で響いており、
距離もなく、自分そのものなのだ。
それがわかれば、
何かを聞いている誰かもいないことが明確になる。
味も同じく、お茶を飲んだ時、
ダイレクトに、舌の上でお茶の味がしている。
自分の意志で、見ようとしなくても、聞こうとしなくても
味わおうとしなくても、直にそれが伝わっている。
もっと言うと、
僕らは目で何かを見ていると思っているが、
自分の目を自分で直接確認したことがない。
本当は目で外にあるものを見ているのではなく、
目の中の世界を見ているので、
自分の目を確認することができないのである。
こうして、あらゆる物や人や声や音や味や感覚が、
内部で展開されているものであることに気づいた時、
〝解釈のない〟ありようを智る。
ただ、これは単なる入り口にすぎず、
距離ゼロで解釈が落ちたその先に、筆舌に尽くし難い
「ふわあーっ、ひゃああ-ん、むぎゅー、じゅわー」な、
たったひとつの解釈がつまびらかになるのだ。
ただ、見ること、聞くことが目の中で起こっている、
と言っても分からないと思うので、来月引っ越し早々、
一度インスタライブでしゃべろうと思っている。
鍵アカ配信で、フォロワーのみへの配信となります。
@hoshitani