香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

解釈と距離

 

 

 

解釈は距離であり、距離から解釈が生まれる。

 

 

1m離れた場所にあるコップを認識する時、僕たちは、

 

外界の、自分と離れた場所にあるコップを、

 

自分の目で見ている、と思っている。

 

だが、その様子をようく観察してみると、本当は、

 

眼球の中(自分の中)にコップがある、とわかる。

 

 

どういうことかというと、

 

自分の眼球の表面に映っているコップは、

 

自分の眼球の表面で直接存在している。

 

いわば、自分と距離ゼロで活動している。

 

眼球=ダイレクトにコップ、であることが解かれば、

 

そこに見ている自分が無いこともハッキリする。

 

 

救急車の音が聞こえてきた時、

 

家の外を救急車が走っているわけではない。

 

直に耳の中で距離ゼロでサイレンが鳴っている。

 

いわば、サイレンの音は自分の中で響いており、

 

距離もなく、自分そのものなのだ。

 

それがわかれば、

 

何かを聞いている誰かもいないことが明確になる。

 

味も同じく、お茶を飲んだ時、

 

ダイレクトに、舌の上でお茶の味がしている。

 

自分の意志で、見ようとしなくても、聞こうとしなくても

 

味わおうとしなくても、直にそれが伝わっている。

 

 

もっと言うと、

 

僕らは目で何かを見ていると思っているが、

 

自分の目を自分で直接確認したことがない。

 

本当は目で外にあるものを見ているのではなく、

 

目の中の世界を見ているので、

 

自分の目を確認することができないのである。

 

 

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こうして、あらゆる物や人や声や音や味や感覚が、

 

内部で展開されているものであることに気づいた時、

 

〝解釈のない〟ありようを智る。

 

 

ただ、これは単なる入り口にすぎず、

 

距離ゼロで解釈が落ちたその先に、筆舌に尽くし難い

 

「ふわあーっ、ひゃああ-ん、むぎゅー、じゅわー」な、

 

たったひとつの解釈がつまびらかになるのだ。

 

 

 

ただ、見ること、聞くことが目の中で起こっている、

 

と言っても分からないと思うので、来月引っ越し早々、

 

一度インスタライブでしゃべろうと思っている。

 

鍵アカ配信で、フォロワーのみへの配信となります。

 

@hoshitani