今、何が起こっていても、見えるまま、聞こえるまま、
思っているままで、赦され切って救われ切っている、
とはいったいどういうことなのか。
よく引き寄せの法則とかでは、
今自分が見ている現実は過去の想いの結果だ、とか
量子力学スピでは、過去に放った思いのフォトンが、
素粒子レベルで結合し、いま結晶化されて見えている、
と言ったりするが、そういう意味で、
いま顕われている現実は、過去の結果だと言える。
赦せなかった過去の想い(自分)が、
物質や事柄となって今の自分に会いに来ているのだ。
なので、顕われている時点ですでに終わっている。
認識できた時にはもう、完璧に決着がついているのだ。
僕達は終わった想いを〝いま〟見ているので、
それ以外、どうすることもできない。
目の前にあるコーヒーカップ、スマホの画像、
会社の同僚、聞こえてくる話し声、暑さ、怒り、悲しみ、
出てきた時にはすでにカタがついて完了しているのだ。
なのに、今の結果に満足できない僕たちは、
「過去の私の想いの何がいけなかったのかしら」
とやってしまう。
終わってゆくものとして、なんの解釈もはさまず、
だらーんと、ただ直に兄貴に捧げ、渡し続ける。
「今月の支払いマジヤバい。どうしよう…」
という不安で苦しい思いがあったら、
「ヤバいヤバい」のままさらけ出していればいい。
後は普通に、現実的な算段をしていけばよいのだ。
あの時ああしていれば、とか、自分は無力だ、といった
余計なジャッジは必要ない。
しかーし!
とはいっても、である。
いくら過去の映像で終わっている、と言われたって、
不安にさいなまれている時は死にそうに苦しいし、
喪失感で鬱々とした時の苦痛もまた事実である。
でも、それでいいので、
不安で死にそうなら死にそうなまま、
喪失感で鬱々していたら鬱々のまま、
どこへも行こうとせず、ただそこで放出している。
それを自分で、愛だ何だと別の方向へもっていかない。
こんなことを思ったらまた現実化してしまう、とか、
この想いもまた愛なんだ、とか要らないから…。
そうやって、のたうち回りながら普通に暮らしていると
ちょっと面白い動画を見て気がまぎれたり、
友達との会話の中で元気が出たりして、
今この瞬間のシーンが変わってゆく。
そうやって、最後は、過去の想念もくそもない、
真実の実相がばーんとつまびらかになる。