香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

そのまま、そのまま

 

 

 

今、何が起こっていても、見えるまま、聞こえるまま、

 

思っているままで、赦され切って救われ切っている、

 

とはいったいどういうことなのか。

 

 

よく引き寄せの法則とかでは、

 

今自分が見ている現実は過去の想いの結果だ、とか

 

量子力学スピでは、過去に放った思いのフォトンが、

 

素粒子レベルで結合し、いま結晶化されて見えている、

 

と言ったりするが、そういう意味で、

 

いま顕われている現実は、過去の結果だと言える。

 

赦せなかった過去の想い(自分)が、

 

物質や事柄となって今の自分に会いに来ているのだ。

 

なので、顕われている時点ですでに終わっている。

 

認識できた時にはもう、完璧に決着がついているのだ。

 

僕達は終わった想いを〝いま〟見ているので、

 

それ以外、どうすることもできない。

 

目の前にあるコーヒーカップ、スマホの画像、

 

会社の同僚、聞こえてくる話し声、暑さ、怒り、悲しみ、

 

出てきた時にはすでにカタがついて完了しているのだ。

 

なのに、今の結果に満足できない僕たちは、

 

「過去の私の想いの何がいけなかったのかしら」

 

とやってしまう。

 

 

終わってゆくものとして、なんの解釈もはさまず、

 

だらーんと、ただ直に兄貴に捧げ、渡し続ける。

 

「今月の支払いマジヤバい。どうしよう…」

 

という不安で苦しい思いがあったら、

 

「ヤバいヤバい」のままさらけ出していればいい。

 

後は普通に、現実的な算段をしていけばよいのだ。

 

あの時ああしていれば、とか、自分は無力だ、といった

 

余計なジャッジは必要ない。

 

 

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しかーし!

 

とはいっても、である。

 

いくら過去の映像で終わっている、と言われたって、

 

不安にさいなまれている時は死にそうに苦しいし、

 

喪失感で鬱々とした時の苦痛もまた事実である。

 

でも、それでいいので、

 

不安で死にそうなら死にそうなまま、

 

喪失感で鬱々していたら鬱々のまま、

 

どこへも行こうとせず、ただそこで放出している。

 

それを自分で、愛だ何だと別の方向へもっていかない。

 

こんなことを思ったらまた現実化してしまう、とか、

 

この想いもまた愛なんだ、とか要らないから…。

 

そうやって、のたうち回りながら普通に暮らしていると

 

ちょっと面白い動画を見て気がまぎれたり、

 

友達との会話の中で元気が出たりして、

 

今この瞬間のシーンが変わってゆく。

 

そうやって、最後は、過去の想念もくそもない、

 

真実の実相がばーんとつまびらかになる。