世界が次々に姿を変え、過ぎ去ってゆく中で、
背後にずっと変化せずに流れている〝平安〟に
意識を委ねながら毎日を過ごしている。
それが、兄貴に任せる、ということなんだな、と、
またまた理解が起きている今日この頃である。
「明日も仕事かあ。いやだなあ」
「日本へ帰国するにも手続きとかウザいなあ」
「寒くなる季節に完全帰国とか、哀愁すぎるっ」
と、少しでもジガ男のささやきが聞こえてきたら、
即座にジガ男ごと、背後の平安へ背負い投げ、
ジガ男も一緒に連れてゆく。
また、平安に委ねるには、
今この瞬間に気づいていることが不可欠だ。
なぜなら、平安は常に今この瞬間に在るからだ。
そもそも僕達は今この瞬間にしか存在できない。
いくら、過去を後悔し、未来を憂いでみても、
その事を考えているのはやっぱり今この瞬間だ。
だから、僕たちは、今から逃れることができない。
それはまた、常に平安でしかあり得ず、決して、
神から離れることができないことをも意味する。
しかし、僕たちはいつも、
今この瞬間に在る平安に抵抗している。
「今、これを我慢したら、将来ええ事あるでえ!」
「今、そんなことしたら、スッカラカンになるで!」
「今のままやったらアカん!もっと頑張れ!」
「今それ食べたら、太るでええー!」
こんな今はイヤや、今の自分が嫌いや、と、
今を我慢し、今の自分を無視し、未来に賭ける。
そのくせ、
「兄貴、私は平安を選びたい」とやっている。
強烈に今この瞬間に開いて、
不変の平安の流れに身を委ねていると、
時間が横並びではなく、眉間から前後に伸びた
〝縦軸の点〟のように知覚されてくる。
この〝今の点〟の中に、過去や未来の自分、
全てが内包されているように思えてくるのだ。
なんか、9月に入ってますます強烈に、
春が息吹くような、平和でありながらも、
ワクワクウキウキした歓びの感覚が、
意識の中に流れ続けているのを感じている。
その息吹の中で、もっと先へ進め、と促される。
状況は新たなフェーズに突入した。
(↑ 尾身会長かっ!)