👆 生まれて初めてカラスと言うものを
至近距離でマジマジと観察した
なんか人間みたい
自分なんて存在しない、これしかない、神は在る、
無限の全体と一つになる、全てが愛そのものだ、
悟る、解放が起きる、実相世界が明らかになる、
夢から目醒め、父が待つ故郷へ永遠に帰還する、
様々な表現の仕方があるが、もうすでに全員が、
これらを達成している(元々そうだった)という話である。
こう書くと、年季の入ったスピ兄弟の方々からは、
「そんなの知ってる知ってる。誰々さんのあれでしょ!」
と言われそうだが、その反応を相手にせず、ぜひ、
この事実の中にダイブして感じてみてほしいのだ。
👆 このカラスは「わたしはカラスだ」と
智覚できているのだろうか?
今年86歳になるうちの母は、
「もう毎日しんどいわあ。はよ死にたいわ」
「向かいの山田の息子、またごみ当番さぼりよった」
「ご飯をよそったら混ぜといてくれんと黄色なるやんか」
「あんた(僕のこと)が帰ってきてから洗濯増えたわあ。
ホンマ、わたしは洗濯ババアかっ!」
(ちょっと着ては次々に洗濯かごへ衣服を放り込むボク)
「(報道ステーションを見ながら)
このプーチンのおっさん、ホンマ悪いやっちゃでー!
アメリカで銃乱射なんかせんと、ロシアに行って、
このおっさんをポンッ、ってやったったらええねん!」
と、一日中、
これ以上でもこれ以下でもないことを呟き続けているが、
もうこれで、自分などどこにもおらず、これしかなく、
無限の全体そのもの、愛そのものであり、
決着がついて悟っている。
どういうことかと言うと、
山田の息子のことを言っている時にはすでに、
はやく死にたいわたし、のことは忘れており、
プーチンのおっさんに怒っている時には、
洗濯ババアのことは跡形もなく消え去っている。
ただ、本人は、
この解脱しきった事実を智覚できていないので、
どうしよう、こうしよう、と不安や心配を続けている。
自分と、
悟りを開いた高僧や覚醒体験をした人との違いは、
この智覚があるかないか、だけである。
何年も苦しい実践や修行をして辿り着く境地、
というものがあるわけではないのだ。
これはかなりステレオタイプな例であるが、
もしスピ兄弟が、うちの母みたいな反応をしたら、
「あ、いけないいけない、この想いは真実ではない」
「あ、いけないいけない、赦してこの思いを明け渡そう」
みたいになるのではないか。
ハッキリ言って、そんなんいらんで!
その〝いけないいけない〟の正体が何なのかがわかれば、
そんなこと、恐ろしくてできないはずだ。
👇 来月兄弟てっちゃんちにお泊りするよ!
こう書くとまた、
あるがままを生きよう、とか、そのままでいよう、
としてしまいがちだが、
どこまでも何かをしようするその動きを、
ほんの一瞬でも止めて、捧げることができたなら、
即行で実相世界に気づける。
(※気づく誰かもその時にはいないのだが…)
夢から目醒めた、とか、檻から出た、と言っているのも
どこか別の領域へ移行したとかではなく、もうすでに、
そうであることを智覚した、ということである。
そして、もし、なにか実践することがあるとすれば、
ただ〝感じとる〟ことで理解される。
(※感じ取ろうとすることではない)
こうしてつらつら書いていてもナンなので、
引っ越し後(9月下旬)にインスタライブをします。
(鍵アカでの配信でアーカイブは残しません)
@hoshitani