僕は奇跡講座の学び始めに、ハレ師匠から、
かなり論理的にハートの悦を叩き込まれたためか、
比較的早い時期からハートが開いていた気がする。
罪悪感なんか一瞬にして吹っ飛んでしまうくらいの
神の法悦(天国の悦び)を感じてしまったせいか、
時折、自我の不安や恐怖感に襲われたりしながらも、
神の子と今の自分とは何の関係もないことが、
初めからバンっと入ってしまっているところがある。
どういうことかというと、
この肉体を持って存在しているように見える自分が、
何を言おうが、どんな暴言を吐こうが、死ねと思おうが、
誰かを怖れようが、不安感にさいなまれようが、また、
それに対して、罪悪感や無価値感を覚えたとしても、
そんなこととは関係なく、
変わらず神の子として〝実存〟しているのだ、と、
頭で納得したり、テキストを読んで理解するのではなく
真の智覚の部分でそう解かっている感じなのである。
だから、正直ぶっちゃけてしまうが、僕に限って言えば
隠ぺいしてきた自分の中の闇をひとつひとつ浮上させ、
それを見つめ、光に晒すことで聖霊に捧げる、
というようなことを(あんまり)しない。
(👆 って、ちょっとはするんかい!)
こう書くと、香港さんはまだ自我と向き合っていない、
隠ぺいしたまま自我を温存していると言われそうだが
神を感じていると〝それは無い〟と、
はっきりしてしまうので、向き合いようがないのだ。
神の法悦(天国の悦)を一瞬でも感じてしまったら、
罪悪感など、あー、もう、そんなの、
瞬殺で消し飛んでしまう。
先日東京の兄弟てっちゃんの家に行った時に、
乙女ののりちゃんが僕のことをこんな風に言ってた、
みたいなことを彼から聞かされ、思わず僕が、
「この、おおはしぃーっ!」と冗談で叫んだところ、
「まだそんな風に思ってるんだねえ」
と兄弟てっちゃんにマジ顔で返されたが、そうではない。
例えば、悟った人が誰かと喧嘩しているからといって、
やっぱりあの人は悟ってはいなかった、ではないのだ。
喧嘩しようが、ハグし合おうが、カンケーないのだ。
喧嘩しているそのままで放っておけばよいのに、
まだこんな風に誰かを憎んでいる、と自分を責め、
勝手に出てきて、消え去ろうとしているものに、
イチャモンをつけている。
イチャモンをつけるとは、
過去の出来事をいつまでもずるずる引きずって、
悲しんだり、苦しんだり、怯えたりすることである。
そして、そのイチャモンこそが問題だった。
ただ、僕も、物質世界のドラマに捉らわれて、
そこから出てくる恐れや不安感に襲われ、
中心のハートに戻るのが困難な時が多々ある。
そんな時は、なるべく今に開いて抵抗せず、
今この瞬間の在りようを見つめるようにしている。
自分の意識を向けたもの(確率が1になったもの)
の中に、ハートの愛が顕われている。
つづく…