香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

神にいちゃもんをつける

 

 

僕は奇跡講座の学び始めに、ハレ師匠から、

 

かなり論理的にハートの悦を叩き込まれたためか、

 

比較的早い時期からハートが開いていた気がする。

 

罪悪感なんか一瞬にして吹っ飛んでしまうくらいの

 

神の法悦(天国の悦び)を感じてしまったせいか、

 

時折、自我の不安や恐怖感に襲われたりしながらも、

 

神の子と今の自分とは何の関係もないことが、

 

初めからバンっと入ってしまっているところがある。

 

 

どういうことかというと、

 

この肉体を持って存在しているように見える自分が、

 

何を言おうが、どんな暴言を吐こうが、死ねと思おうが、

 

誰かを怖れようが、不安感にさいなまれようが、また、

 

それに対して、罪悪感や無価値感を覚えたとしても、

 

そんなこととは関係なく、

 

変わらず神の子として〝実存〟しているのだ、と、

 

頭で納得したり、テキストを読んで理解するのではなく

 

真の智覚の部分でそう解かっている感じなのである。

 

 

だから、正直ぶっちゃけてしまうが、僕に限って言えば

 

隠ぺいしてきた自分の中の闇をひとつひとつ浮上させ、

 

それを見つめ、光に晒すことで聖霊に捧げる、

 

というようなことを(あんまり)しない。

 

(👆 って、ちょっとはするんかい!)

 

 

こう書くと、香港さんはまだ自我と向き合っていない、

 

隠ぺいしたまま自我を温存していると言われそうだが

 

神を感じていると〝それは無い〟と、

 

はっきりしてしまうので、向き合いようがないのだ。

 

神の法悦(天国の悦)を一瞬でも感じてしまったら、

 

罪悪感など、あー、もう、そんなの、

 

瞬殺で消し飛んでしまう。

 

 

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先日東京の兄弟てっちゃんの家に行った時に、

 

乙女ののりちゃんが僕のことをこんな風に言ってた、

 

みたいなことを彼から聞かされ、思わず僕が、

 

「この、おおはしぃーっ!」と冗談で叫んだところ、

 

「まだそんな風に思ってるんだねえ」

 

と兄弟てっちゃんにマジ顔で返されたが、そうではない。

 

例えば、悟った人が誰かと喧嘩しているからといって、

 

やっぱりあの人は悟ってはいなかった、ではないのだ。

 

喧嘩しようが、ハグし合おうが、カンケーないのだ。

 

喧嘩しているそのままで放っておけばよいのに、

 

まだこんな風に誰かを憎んでいる、と自分を責め、

 

勝手に出てきて、消え去ろうとしているものに、

 

イチャモンをつけている。

 

イチャモンをつけるとは、

 

過去の出来事をいつまでもずるずる引きずって、

 

悲しんだり、苦しんだり、怯えたりすることである。

 

そして、そのイチャモンこそが問題だった。

 

 

ただ、僕も、物質世界のドラマに捉らわれて、

 

そこから出てくる恐れや不安感に襲われ、

 

中心のハートに戻るのが困難な時が多々ある。

 

そんな時は、なるべく今に開いて抵抗せず、

 

今この瞬間の在りようを見つめるようにしている。

 

自分の意識を向けたもの(確率が1になったもの)

 

の中に、ハートの愛が顕われている。

 

 

つづく…