なんだか気ぜわしい師走の午後…。
路上の花からも〝大好きぃーっ!〟を感じる僕である。
ただ、誤解を避けるために言うならば、
この悦びは、外界の出来事や身体的エクスタシーとは
何の関係もなく、全くの別物である、ということだ。
誰かから何かを言われてムカついたとしても、
こいつマジウザい、やっぱりキモい、と感じていても、
明日会社行きたくないなあ、と思っていたとしても、
そのムカつき、そのウザい感じ、そのイヤーな想い、
それそのもので愛であり、大好きぃーっ、なので、
兄弟をまだこんなふうに思っている自分は…、
というふうにはならないのである。
また、聖霊を通して観る、とか、ハートを感じる、
というような〝考え〟からくるやり方でもなく、
もうそのまま、抵抗無しで、チョクに〝大好き〟がある。
上手く言えないのだけれど、花を見た自分が、
それを〝大好きぃーっ!〟と感じているのではなく、
花が僕に見られて歓んでいる感じ。(⇐ここ重要!)
昨日、セブンのイートインでコーヒーを飲んだあと、
店を出てからイヤーウォーマーを忘れたことに気づき
取りに戻ったがすでに誰かに持っていかれた後だった。
「うわっ、くそー、高かったのにーっ、きいぃーっ!」
という思い自体がすでに〝悦びで大好き〟であり、
この出来事自体が〝愛してるーっ〟になっている。
ここまできたらもうヘンタイである。
きっと、僕には計り知れない人智を越えた部分では、
イヤーウォーマーがなくなって正解だったのだ。
ただ注意したい点は、
「イヤーウォーマーを身に着けて自転車を運転して
いたら、車のクラクションが聞こえず、
もしかしたら事故に遭っていたかもしれない。
だから、なくなったのは完璧だったんだ。
兄貴、ありがとう!大好きぃーっ!」
では、決して断じて絶対に〝ない〟。
考えで納得してから感じるのではない。
これがあるから大好き、ではないのだ。
先に愛を感じることで理解が起こる。
いつでも感じること(神)が先手である。