👆 授業の帰りに冷えたワインを一杯
お客がたくさんいるのになぜかひっそりしている
これぞ南森町(なんもり)である
〝AirPods紛失したと思ってたら出てきた事件〟以降
どんな出来事も意味なく起こっているのではない、
という見方が定着し始めている。
机の上に置いてある本、寝る時の毛布の心地よさ、
ゴミ収集をする人の姿、買ってきたお弁当の味、など、
これまで当然のようにここにあると思っていた、
物や事や人に、思いもしない存在の意味がある
ことを知って目を見張っている。
コーヒーを淹れる際に手元が狂い、
コーヒーの粉をぶちまけってしまったことさえ、
何か別の目的のために起こっている、
究極には自分のために起こっているように思え、
深い驚きと感慨を抱くようになった。
突然出現するあのゴキちゃんにも意義がある。
その意義が何か、は分からないけれど…。
それ以来、ワイングラスを割ってしまっても、
物を失くしても、下手なマッサージ師にあたっても、
全然〝チッ!〟ではなくなった。
👆 家から徒歩1分なのだ
心の中に隠蔽できていると思っているものが、
全部丸ごと〝デーンッ〟と、むき出しになって、
この外側の物質世界に現われている。
実際、何ひとつ隠すことなど、できていなかったのだ。
見えている全てが〝自分のカケラ〟だった。
神を体験する、とは、
こうした、自分の心の中が映し出されている場所で
起こっていること全てが、神への驚きや感動として
見えていることであり(見ようとすることではない)、
〝自分のカケラ〟を〝神のカケラ〟として、
認知(智覚)できていることである。
ちょっと前の〝電気代たっけー事件〟も、
一時期は、極力暖房を使わずに節電していたのだが、
エアコンの温風でさえ、寒さから僕を守ろうとする
神の想い(愛)の顕われだったことを体験して以来、
寒い時にはきちんとエアコンを使っている。
よくよく考えると、別に何十万円払うわけでなし、
なぜあんなにも節電にこだわったのか、
今では謎である。
この世界は幻想で、真実ではない。
しかし、神の子が創った幻想世界の中に、
ちゃんと自分のカケラ、神のカケラが映り込んでいる。
それらをきちんと認識することが赦しである。
「聖霊がついていてくれるから大丈夫」
「私は父から無限に愛されている」
「私はすでに故郷へ帰っている」
と、何か事が起こる度に言い聞かせても意味がない。
その起こったことの中に神が在る。
聖霊がついていてくれるから大丈夫、
であるのなら、実際に、
「聖霊がついていてくれるから大丈夫」を生きるのだ。
それができているかどうかを確認するのは簡単だ。
もし、聖霊がいてくれるから本当に大丈夫、だと、
真に体験しているのなら、その時、あなたは、
会社でそんな行動を取っているだろうか。
その人たちとこれからも一緒にいるだろうか。
家族にそんな言動をするだろうか。
何より、
自分に対してそんな選択をするだろうか。
神の体験を生きるとき、現実的な何かを
手放さなくてはならないかもしれない。
そんな時、自分をごまかすことなく、
ぶるぶる震えながらも決断できるだろうか。