香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

今から離れて

 

 

ようやく、ようやく、この世界はとうの昔に終わっている

 

という自覚を以って、日々の日常を生き始めている。

 

それは、日々の日常を〝眺めている〟ことではない。

 

世界が始まったと同時に終わったその地点に立って、

 

日々起こる出来事の中を〝生きている〟のだ。

 

 

例えば、会社で大きな失敗をしてしまったとして、

 

自分の失敗で業務が大変なことになっているのに、

 

自分には何もわからない、委ねて何もしない、

 

ただ現れるままに消えてゆくのを見送るだけだ、

 

もう物語は終わっている、とただ眺めていても、

 

実際には、何らかの方策を講じ、対処する必要があり、

 

結果、ただ眺める、という真理と、実際に行動する、

 

という現実の狭間で葛藤することになる。

 

なので、もう取り消されているこの夢見の世界を、

 

取り消されたという自覚があるまま〝生きる〟

 

ことが非常に大切になってくる。

 

 

👆 夜中にゴミ出しをしてエレベーターに乗ったら
    モニターの日付がぞろ目だった。

    1か2のぞろ目は毎日必ず一回は見る。

 

 

何かの出来事に対し、あたふたしながら対処しようと、

 

あんたのせいでこうなった、と誰かを責めようと、

 

調子こいて大失敗してしまおうと、

 

全ては完璧な設定の下に起こり、消えていっている。

 

世界中の大部分の人たちもそうやって生きている。

 

ただ、ひとつだけ違うのは、もうこれ終わっている、

 

という智覚(自覚)があって生きているか、にある。

 

 

更に重要なのは今この瞬間から離れないということだ。

 

昔の僕がよくやっていたのは、仕事で失敗して、

 

ちょちょ舞いながら全てに対処し終わったその後で、

 

これはリアルではない、世界は終わっている、

 

と、目を閉じて自分に言い聞かせるやり方だった。

 

そうではなくて、ちょちょ舞っているその瞬間にも、

 

神の智覚を思い出している、ということである。

 

それが、ちょちょ舞っている自分をも含めて、

 

兄貴の視点から眺めることの本当の意味である。

 

 

なぜなら、大抵何かにちょちょ舞っている時というのは、

 

無意識に陥っている(自分を忘れている)状態なので、

 

少しずつ、少しずつ、事が起こっているその最中に、

 

終わっている世界を思い出す練習をしてゆく。

 

そうすることで、だんだん夢がリアルではなくなり、

 

ズームが引けて俯瞰して世界が見れるようになる。

 

 

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今に在る神に抵抗せず、そのままの流れを許容する、

 

とは、焦ってドタバタやっている、その今から離れずに、

 

そのまま流れてゆくのを受け容れるということである。

 

 

「世界が終わっていると本当に自覚するには、

 

 自分の中の全てを愛して肯定することが必然だ。

 

 その愛の感覚が永遠を復活させてくれるから…」

 

 

以前、兄貴が言っていた言葉が思い出された。