ようやく、ようやく、この世界はとうの昔に終わっている
という自覚を以って、日々の日常を生き始めている。
それは、日々の日常を〝眺めている〟ことではない。
世界が始まったと同時に終わったその地点に立って、
日々起こる出来事の中を〝生きている〟のだ。
例えば、会社で大きな失敗をしてしまったとして、
自分の失敗で業務が大変なことになっているのに、
自分には何もわからない、委ねて何もしない、
ただ現れるままに消えてゆくのを見送るだけだ、
もう物語は終わっている、とただ眺めていても、
実際には、何らかの方策を講じ、対処する必要があり、
結果、ただ眺める、という真理と、実際に行動する、
という現実の狭間で葛藤することになる。
なので、もう取り消されているこの夢見の世界を、
取り消されたという自覚があるまま〝生きる〟
ことが非常に大切になってくる。
👆 夜中にゴミ出しをしてエレベーターに乗ったら
モニターの日付がぞろ目だった。
1か2のぞろ目は毎日必ず一回は見る。
何かの出来事に対し、あたふたしながら対処しようと、
あんたのせいでこうなった、と誰かを責めようと、
調子こいて大失敗してしまおうと、
全ては完璧な設定の下に起こり、消えていっている。
世界中の大部分の人たちもそうやって生きている。
ただ、ひとつだけ違うのは、もうこれ終わっている、
という智覚(自覚)があって生きているか、にある。
更に重要なのは今この瞬間から離れないということだ。
昔の僕がよくやっていたのは、仕事で失敗して、
ちょちょ舞いながら全てに対処し終わったその後で、
これはリアルではない、世界は終わっている、
と、目を閉じて自分に言い聞かせるやり方だった。
そうではなくて、ちょちょ舞っているその瞬間にも、
神の智覚を思い出している、ということである。
それが、ちょちょ舞っている自分をも含めて、
兄貴の視点から眺めることの本当の意味である。
なぜなら、大抵何かにちょちょ舞っている時というのは、
無意識に陥っている(自分を忘れている)状態なので、
少しずつ、少しずつ、事が起こっているその最中に、
終わっている世界を思い出す練習をしてゆく。
そうすることで、だんだん夢がリアルではなくなり、
ズームが引けて俯瞰して世界が見れるようになる。
今に在る神に抵抗せず、そのままの流れを許容する、
とは、焦ってドタバタやっている、その今から離れずに、
そのまま流れてゆくのを受け容れるということである。
「世界が終わっていると本当に自覚するには、
自分の中の全てを愛して肯定することが必然だ。
その愛の感覚が永遠を復活させてくれるから…」
以前、兄貴が言っていた言葉が思い出された。