👆行きつけの喫茶店でトーストを食べながら
『22を超えてゆけ』(辻麻里子著)を読む
日本語教師養成学校の卒業まで一か月を切り、
周囲の生徒たちの就活が慌ただしさを増しつつある。
学校側も、日本語学校の採用担当者を招き、
毎週のように就職説明会を開いている。
教師養成学校が生徒の就職斡旋に熱心なのは、
自分たちの生徒が一人採用されるごとに、
コミッションが入る仕組みになっているからだが、
日本語学校が欲しがっているのは20代の教師で、
若い教師が確保できなかった場合、30代、40代、と、
徐々に採用年齢をあげてゆく、という方針のようだ。
「説明会に参加しても、私とは目も合わさへん」
と、60代の女性が自嘲気味に言っていた。
現に僕も、先日、台湾の日本語学校に応募したら、
やはり、書類選考で落とされた。(多分年齢が原因…)
でもまあ、僕も長年人事を担当してきたので、
同じ新米教師を採用するのなら、若い人の方がいい、
という採用側の気持ちもよくわかる。
僕はもともと日本で先生をするつもりはなかったので、
説明会とかにも出ていないのだが、それでも、
何気なく応募した台湾の学校の書類選考に落ちたり、
誰々がどこどこの学校に決まった、という話を聞くと、
なんとなく胸がざわつき、焦燥感が込み上げてくる。
「台湾でどこからも採用されなかったらどうしよう」とか
「年齢が上がると、何をやってもダメなんだ」とか、
「ネパールへ行く話、受けようかなあ」
といった様々な〝迷いの想い〟が湧き上がってくる。
👆『22を超えてゆけ』の話はまた後日…
いまならこの本の真意がわかる
うわっ、これって久々の〝エゴの罠だ〟と思った。
他と比較させて焦らせてくる。
このままでは大変なことになるぞ、と動揺させておいて、
意味不明の行動に駆り立て、結果、失敗して、
ほうら、お前には価値がない、と思わせようとするのだ。
そもそも、すでに無限の豊かさと自由を持っていて、
お金でも、人でも、作品でも、何でも生み出せる自分が、
なんで誰かから採用されなければいけないのだ?(笑)
なんで日本語教師をしなければならないのか?(爆)
なんでそんな狭い世界で生きる必要があるのか?
愛か恐れかの選択、とよく言われるが、これはまた、
《有る》を前提で生きるか、《無い》を前提で生きるか、
もっと言えば、神側か自我側か、の選択でもある。
もちろん、エゴはあらゆる場面で焦らせてくるが、
僕はもう、絶対に自我では1ミリも動かない。
兄貴側(全てが与えられている側)でやってゆく。
これが〝選び直す〟ことの意味だと思っている。
会社勤めをしていた頃は、選び直すことが困難だった。
なぜなら、会社のシステム自体がエゴで回っており、
個人の自由よりも、組織の利益が優先され、
それを好しとする人達だけが集まっている世界で、
赦すことはできても、1ミリも自我を採用しない、
なんていうことは不可能だった。(僕の場合だけれど…)
そういう意味でいま、
大胆に神側(かみがわ)を選べている自分がうれしい。
他の人にはまねできない、自分だけの道を行くのだ。