コン親方のマッサージを終え、外へ出た。
書き物をしようと、いつも通っているカフェへ入った。
パソコンの電源が確保できる席に他の人が座っていた。
「こいつジャマ。こいつさえいなければ…」
と思った瞬間、別の声が聞こえてきた。
「この神ジャマ。神さえいなければ…」
👆 神がコーヒーになって歓んでいる
兄弟のように見えていたものは、全部神だった!
「こいつ、めちゃイラつく」は、神にイラついている。
誰かと言い合いになって罪悪感が出てくるのも、
本当は神と言い合いをしているからだ。
オセロの黒が、一斉に白へとひっくり返っていくように、
全てが神だったことが思い出されてきた。
僕は、
電源が確保できる席に座っている人の隣に腰掛けた。
神が僕の隣に座っているのだ、と思ったら、
ものすごい愛が込み上げてきた。
👆 神がいっぱい!
テーブルも、コーヒーも、お客も、みんな神だった!
自分は神に囲まれていたことに驚愕する。
逆の言い方をすれば、神を思い出すために、
全ての人や物や事が存在しているのだった。
そして、それらは存在しているだけで、愛だ。
床に落ちているゴミでさえ愛なのだった。
あらゆるものを映し出しているベールの裏に、
神の想いが流れている。
そして、その想いはいうまでもなく、無条件の愛だ。
自分が椅子を見て何かを思うと、自我の投影となり、
椅子から放たれる愛を感じると、神の反映となる。
そして、神を感じている自分自身もまた、神だった。
存在すること以外、何もしなくてもいいのだ、と思った。
何かになる必要も、何かを証明する必要もない。
今に抵抗せず、ただ存在しているだけで完璧なのだ。
数日前、台湾で二人の台湾人と喧嘩をした時も、
実際、僕は神と喧嘩をしていたのだった。
だが、神と喧嘩をするなんて、という風にはならない。
喧嘩をしながら、愛を感じて歓んでいる。
今に開いてそのままの流れを受け容れて何もしない、
とはそういうことなのだ。
カフェの帰り、香港島を眺めながらワインを飲んだ。
海岸通りは、大陸の観光客でものすごい人出だった。
今この瞬間、ただ、神に開いて存在していた。
もう自分はどこへも行かない。