今この瞬間に〝開いている〟とはどういうことなのか。
この〝開く〟という言葉を別の言い方に置き換えると、
〝委ねている〟〝任せきっている〟になるだろうか。
この瞬間の今に強烈に集中しながら、
起こるがままでいると、個人的な思考が脱け落ち、
見えているものそのもの、聞こえているそのもの、
匂っているそのもの、味わっているそのもの、
感じているそのもの、だけが活動している感じになる。
僕達は普段、5官(目、耳、鼻、舌、皮膚)から得た
画像や音や匂いや味や感覚を、脳が解釈して、
喜んだり、怒ったり、恐れたり、落ち込んだりしている。
例えば、
上司の田中部長の顔を、眼球で見て嫌悪感を抱き、
おまえ馬鹿か、という声を耳で聞いて緊張し、
頼むよ、と、ぽんと肩を叩かれて、死ね、と思う。
しかし、嫌悪感を抱き、緊張し、死ねと思う前の、
田中部長の顔そのもの、聞こえている声そのもの、
肩を叩かれた皮膚の感触そのものがあるはずだ。
そして、今この瞬間に任せきって何もしないでいる時、
解釈が起きる以前の〝そのもの〟に戻っている。
また逆に、目や耳や鼻や舌や皮膚の働きがなければ
脳は、それが何であるかを解釈できなくなり、
〝わたし〟や〝あなた〟を認識できない。
よく、スピリチュアルでは、世界は夢で幻想なのだから、
見えているもの、聞こえているものも無いんです、
と言ったりするが、厳密に言えば、そうではない。
今この瞬間に見え、聞こえ、匂い、味わい、感じている
それそのものの中に解釈がないことが判れば、
そこに実相世界(天国)が在ることがはっきりする。
ひとつ例を挙げると、
僕が高校生の頃に大ファンだった石坂智子のLP版が
メルカリに出品されていたので購入したのだ。
送られてきた商品は古い段ボールで梱包されており、
封を開けてしばらくしてから、体が痒くなり始めた。
梱包資材に付着していたダニが原因だ、と思った。
だが、これも、今この瞬間だけで観れば、
皮膚に感じる痒さ〝そのもの〟だけしかなく、
ただ、かゆーい、だけで何の問題もない。
その次の瞬間に、
梱包資材を捨て、ダニアースを噴きかける、
という思いが自分無しに〝ふっ〟と出てきて、
その行為自体が起こっている。
だが、それを、
自分がやっていると錯覚しているだけで、
ただ〝ふっ〟によって行われているだけで、
そこに、何かをしている自分なんかいない。