香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

今日あって明日(あす)ない命

👆新世界商店街の壁に貼ってある健さんのポスター

   一体、何年ここに貼られているのだろう?

  しかし、本当は〝いま忽然と〟現れたのだ

 

 

〝未来まっさら。さっぱりわからない者でいる…〟

 

と、つくし姉さんが自身のブログで書かれているが、

 

本当にその通りだな、と思う。

 

 

tsukushiworks.blogspot.com

 

 

例えば、僕の場合で言えば、

 

30年間も香港に駐在してきた自分、

 

財務や総務や人事のスキルがある自分、

 

広東語や北京語が話せる自分、

 

日本で広東語の教本や、台湾で小説本を出版した僕、

 

はては、こんな一瞥体験をして、悟りの体験をした僕、

 

などなど、まず、僕を、僕たらしめている過去がある。

 

そして、今の僕は、

 

そんな過去とは全く関係のない暮らしをしている。

 

いや、もちろん、帰国当初は、

 

財務や総務の経験を生かして、どこかに就職しよう、

 

とか、また香港に戻ってなにか仕事を始めよう、とか、

 

過去の延長線で未来を画策したりしていた。

 

それで、いろいろ動くのだが、どうもうまくいかない。

 

というか、ちっとも心が動かない。

 

かといって、他に何があるのか、と言えば、何もない。

 

それでもう〝お先真っ白でいいや〟と開き直った。

 

 

 

 

安定した会社員の〝安全保証〟は手放さずに、

 

冒険をしたい、と、虫のいいことをずっと考えていた。

 

でも、それは矛盾している。

 

安定している時点でもう、何をやっても冒険ではない。

 

昭和の頃(今はどうか知らないが)、

 

仕事では自己表現ができない地方公務員の人たちが、

 

演劇や、歌や、絵画をやったりするのが流行ったが、

 

(小説の同人誌の作家も大抵は公務員だった)

 

彼らは決して大成しなかった。

 

公務員だからどうの、と言っているのではなく、

 

彼らには、手放す覚悟からくる迫力がないので、

 

表現するものが、独りよがりで面白くないのだ。

 

 

過去を手放さずに新しいことをやろうとしても、

 

それは、

 

うんこを出さずに、美味しいものだけを食べよう、

 

とする行為にも似て、不毛だ。

 

断捨離なんかもそうで、

 

断捨離をして運命を変える、と言うが、

 

物を捨てることで過去を捨てることができ、

 

そこから新たな展開(冒険)が生まれるのだ。

 

 

この先どうなるかさっぱりわからない

 

今の自分に完全に開いて委ね切ってしまうと、

 

なにがあっても大丈夫になる。

 

これは、とてつもない自由な感覚だ。

 

たとえ、生活保護を受けて、

 

きちきちの生活を送るハメになったとしても、

 

それはそれで、やっぱり大丈夫なのだ。

 

しかし逆に言えば、過去の自分をすべて捨てて、

 

まっさらで、真っ白で、どうなるかわからない今、

 

を受けいれ、任せ切って生きるということは、

 

個人の自分には到底思いも及ばない、

 

突拍子もないことが起こる、ということでもある。

 

こんなん、いやや、いやや、と言いながらも、

 

掴んだものを掴んだまま放さないでいると、

 

地縛霊さながらそこから一歩も動けなくなる。

 

なので、今の僕は、

 

不確実性真っ只中の方がワクワクする。

 

 

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どうなるかわからない人生、上等ではないか!

 

でも、心底、腑に落ちてそう思えるまで、

 

僕の場合、アラ還の年までかかった。

 

なので、僕よりまだまだ若いみなさん、

 

僕も、つくし姉さんも、ちゃんとしぶとく(笑)、

 

晩酌のビール飲んでぷっはーで生きれているので、

 

今、まっさらの中に委ね切って大丈夫だよん(笑)

 

(ただし、それをすれば、状況がよくなる、

 

 という意味ではないのであしからず…)

 

 

 

P.S  ちなみに僕はつくし姉さんより若いですっ!

      (何のアピールや!)