先日も書いたが、
今年の夏休みは、本当に何もせず、静かに過ごした。
とは言っても、実際には、深夜のジムで筋トレをしたり、
新世界で飲んだくれたり、家で小説を書いたり、
お盆に実家に帰ったり、京都で遊んだり(笑)、と、
色々やっていたわけだが、にもかかわらず、
本当に何もせずに静かに過ごしたなあ、
と感じられるのは多分、この瞬間瞬間の〝今〟に、
任せきっていたからではないか、と思ったりする。
まあ、それも、後付けでそう解釈しているだけで、
その瞬間のその時は、任せきろう、とか、
今この瞬間でいよう、などとは全く考えていない。
(考えていたら任せていないことになる…。)
今この瞬間瞬間のあるがままを受け入れて過ごす、
とはどういうことかと言うと、
見えているものを見えている通りに、
聞こえているものを聞こえている通りに、
匂っているものを匂っている通りに、
味がしているものをその味の通りに、
身体に感じる感触をその感触の通りに、
それら5感に即して、ふっと湧いてくる思いを、
その湧いている通りに、ポンと音がしたら、
ポンだけにに任せている。
つまり、顕れているものを、顕われている通りに
放っておくことである。
例えば、30分後のプレゼンの資料ができておらず、
今、必死のパッチでパソコンに向かっているとする。
また、自宅のソファに腰かけ、お茶を飲みながら、
静かに、好きな本か何かを読んでいるとする。
この2つの状況下にいる自分を比べてみると、
明らかに、前者は心理的緊張度が高く、後者の方が、
ゆったりしていて、自分的には好ましい状態だと言える。
しかし、前者の状況も、必死のパッチ、ではなく、
五感に顕われている様子そのものだけで見ると、
ただパソコンの画面があり、書類があり、
キーボードを打っている、という事実のみがある。
その瞬間瞬間には時間もなく、物理的な差もない。
そこに差を作っているのは、これは良い、あれは悪い、
これは好き、あれは嫌い、という思考の判断であり、
その判断が、時間や空間の中で何かをしている自分、
という〝まぼろし〟を作り出している。
要するに、僕たちは無いものを見ているのだ。
それが、今に抵抗している、ということである。
僕だって、もういい年だし、これからどうしようかな、
と思うと不安になることもしばしばである。
しかし、それが〝ウソ〟だと見抜けているので、
放っておくことができるようになった。
〝そこ〟にいると、絶対に不幸になれないのだ。
というわけで、
どうやっても不幸になれないボクなのであった。