香港さんといっしょ!ー純粋非二元で目醒めを生きるー

欲望都市香港で覚醒した意識で生きることを実践中。今回を最後の生にするための日常を綴っています。

いつまで抵抗してんねん!

 

 

先日も書いたが、

 

今年の夏休みは、本当に何もせず、静かに過ごした。

 

とは言っても、実際には、深夜のジムで筋トレをしたり、

 

新世界で飲んだくれたり、家で小説を書いたり、

 

お盆に実家に帰ったり、京都で遊んだり(笑)、と、

 

色々やっていたわけだが、にもかかわらず、

 

本当に何もせずに静かに過ごしたなあ、

 

と感じられるのは多分、この瞬間瞬間の〝今〟に、

 

任せきっていたからではないか、と思ったりする。

 

まあ、それも、後付けでそう解釈しているだけで、

 

その瞬間のその時は、任せきろう、とか、

 

今この瞬間でいよう、などとは全く考えていない。

 

(考えていたら任せていないことになる…。)

 

 

 

 

今この瞬間瞬間のあるがままを受け入れて過ごす、

 

とはどういうことかと言うと、

 

見えているものを見えている通りに、

 

聞こえているものを聞こえている通りに、

 

匂っているものを匂っている通りに、

 

味がしているものをその味の通りに、

 

身体に感じる感触をその感触の通りに、

 

それら5感に即して、ふっと湧いてくる思いを、

 

その湧いている通りに、ポンと音がしたら、

 

ポンだけにに任せている。

 

つまり、顕れているものを、顕われている通りに

 

放っておくことである。

 

 

 

 

例えば、30分後のプレゼンの資料ができておらず、

 

今、必死のパッチでパソコンに向かっているとする。

 

また、自宅のソファに腰かけ、お茶を飲みながら、

 

静かに、好きな本か何かを読んでいるとする。

 

この2つの状況下にいる自分を比べてみると、

 

明らかに、前者は心理的緊張度が高く、後者の方が、

 

ゆったりしていて、自分的には好ましい状態だと言える。

 

しかし、前者の状況も、必死のパッチ、ではなく、

 

五感に顕われている様子そのものだけで見ると、

 

ただパソコンの画面があり、書類があり、

 

キーボードを打っている、という事実のみがある。

 

その瞬間瞬間には時間もなく、物理的な差もない。

 

そこに差を作っているのは、これは良い、あれは悪い、

 

これは好き、あれは嫌い、という思考の判断であり、

 

その判断が、時間や空間の中で何かをしている自分、

 

という〝まぼろし〟を作り出している。

 

要するに、僕たちは無いものを見ているのだ。

 

それが、今に抵抗している、ということである。

 

 

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

blog.hoshitani-shusaku.com

 

 

僕だって、もういい年だし、これからどうしようかな、

 

と思うと不安になることもしばしばである。

 

しかし、それが〝ウソ〟だと見抜けているので、

 

放っておくことができるようになった。

 

〝そこ〟にいると、絶対に不幸になれないのだ。

 

というわけで、

 

どうやっても不幸になれないボクなのであった。