👆 自転車がパンクした。
近所で自転車屋を探すが見つからない。
いま日本で、街の自転車屋さんが消滅しつつ
ある事実を目の当たりにした。
コースで言う、兄貴のガイダンスに100%従う、とか、
兄貴に全てを任せて明け渡す、というのは、結局、
〝私〟という認識を落とすための方便だったのだな、
ということを理解し始めている今日この頃である。
👆 朝一番で行ったのですぐに修理してもらえたが、
開店後、次々にお客さんがやってきて、
パンク修理で2時間待ち、だって。
兄貴のガイダンス(導き)に従うと言うと、
兄貴からこうしなさい、ああしなさい、という指示が来て、
その指示を受け取った〝個人の私〟がその通りに動く、
みたいなことを想像してしまいがちだが、そうではない。
ていうか、兄貴からこんなガイダンスが来た、と、
導きを受け取っている〝個の私〟がいる時点で、
兄貴を別物として対象化してしまっており、
すでに実相(天国)からずれてしまっている。
兄貴のガイダンスを100%受け容れるというのは、
自分という認識が100%無くなった時に可能となる。
いったん自己の認識が脱けきり、その一瞬の後、
再び自己が回復したその瞬間に、
それが兄貴のガイダンスだったと気づくのだ。
もっというなら、今この瞬間に見えているようす、
起こっているようすそのものがガイダンスである。
もっともっと言うなら、
今この瞬間瞬間に、ふっと立ち顕われてくる思い、
それ自体がすでに兄貴のガイダンスである。
その思いを無視して、兄貴に導いてください、
とやっているのは、悲劇を通り越して喜劇である。